書籍化されました
《苦戦のさなかに、最良の同志の金策が「不審死」する》
朝鮮戦争の最中の1951年1月31日、金策が死亡しました。
時期はちょうど、中朝国境の鴨緑江まで、押し寄せたアメリカ軍を中国軍の参戦で、何とか、押し返した苦戦の真最中でした。
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《二転三転する金策の「死因」》
・当初は、自宅の石炭暖房による二酸化炭素中毒死でした。
それが、いつの間にか「戦死」に代わり、「金日成」死後に発表された自伝回顧録の「世紀とともに」では、
「過労による心臓麻痺での死亡」とされました。
証言によると、金策が死亡する前日に、彼が、「金日成」の司令部を訪れて、長時間話し合っていたとか、口論していたなどの証言もあります。
《晩年は「微妙な関係」だった「金日成」と金策》
満州国軍警に追われ逃げ込んだ、ソ連領ハバロフスクで「同志」となって以降、「師として仰ぐ」一方で、長男の金正日の「托卵疑惑」などで、含むところが多かったようです。
しかし、金策の「軍事能力」を高く買っていた「金日成」は、朝鮮戦争では金策を各司令官の上に置く「参謀総長」に任命しています。
「甘い見通し」で始めた朝鮮戦争が散々な結果となり、停戦後、自分の「権威」が下落するのに反比例して
金策の地位が高まるのを警戒したのかもしれません。
《死後、異様な礼賛をされた金策》
死後、金策は北朝鮮では「共和国英雄」と公認され、生誕地と称された城津市は「金策市」に名称を改められました。
また、日本統治時代の清津市に残された日本製鉄の製鉄所は、「金策製鉄所」と名称変更され、首都、平壌の平壌工業大学は「金策工業大学」に、朝鮮戦争後設立された空軍大学は「金策軍官学校」とされました。
しかし、多くの市民や同志の涙を誘った金策の「国葬」には何故か「金日成」は参列しませんでした。
「金日成」の自伝回顧録の「世紀とともに」は、「金日成」の晩年から執筆され始め、金日成の死後も編集が続けられて、完成しました。
特に、「金策礼賛」のオンパレードの第八巻「革命家・金策」の部分は「金日成」死後に執筆されており、後継者の金正日の「意向」が強く反映されています。
この点が、元航空自衛隊「空将」の佐藤守氏の「金正日の実父金策説」のポイントとなっているようです。
《「敗戦責任」のなすりつけによる、ライバルや他派閥の粛清による「権力掌握」》
驚いたことに、「成りすまし金日成」こと金聖柱は、朝鮮戦争開始後に行方不明となり「死亡説」さえ流されました。
要は、3年にわたる戦争中は「所在不明」だったということです。
しかし、「休戦条約」締結後、何食わぬ顔で戻ってきて、自分の「独裁体制」の確立を加速させます。
「金日成」は、自らの派閥の「満州派(東北抗日連軍)」と、朝鮮戦争開戦準備中に、ソ連を通じて補充した
「ソ連国籍の朝鮮人」=中央アジア在住だった「高麗人」と画策して、警察と軍を押さえます。
警察と軍を抑えたからには後は、ライバルや、邪魔者を粛清(処刑)するだけです。
当時の最大派閥は「南労派=南朝鮮労働党」でした。
「南労派」の主要人物は、朴憲永(パク・ホニョン)と朴甲東の両名でした。
朴憲永(パク・ホニョン)は「活動歴」の長い独立運動家でしたが、南朝鮮で李承晩が実権を握り、
1948年に大韓民国を建国すると、北緯38度線を超えて、北朝鮮に活動の拠点を移しました。
1953年、南朝鮮での活動歴が長いことを理由に、「金日成」から、「米帝国主義のスパイ罪」をでっちあげられて、粛清されました。
※続きます。