書籍化されました
《フルシチョフの「スターリン批判」で九死に一生を得た朴甲東》
※続きです。
スターリン批判
1956年のソ連共産党第20回大会における党第一書記のニキータ・フルシチョフによる秘密報告「個人崇拝とその結果について」のこと。
そこではスターリン執政期における政治指導や粛清の実態が暴露され、その原因として個人崇拝が批判された。
このフルシチョフ報告に前後してスターリン時代の思想や政策が批判され、ソビエト連邦の政治・社会の画期をなすとともに、世界各国の共産主義運動に影響を与えた。
1953年3月5日にスターリンが死去すると、ソ連共産党は集団指導体制に移行し、閣僚会議議長(首相)にゲオルギー・マレンコフ、第一副首相にラヴレンチー・ベリヤ(内相)、ヴャチェスラフ・モロトフ(外相)、ニコライ・ブルガーニン(国防相)、ラーザリ・カガノーヴィチ、副首相にアナスタス・ミコヤン(商業・貿易相)、党中央委員会筆頭書記に
ニキータ・フルシチョフといった体制となった
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スターリン死後
「恐怖」と「個人崇拝」で独裁体制を敷いたスターリン死後、その反省も込めて、ソ連執行部は「集団指導体制」び移行し、その中でのトップは筆頭書記のフルシチョフとなりました。
「革命家としての実績が無く」「ソ連領内の滞在期間の長い」、「金日成」は、北朝鮮内で「プチ・スターリン」と呼ばれ、非難に晒されました。
その非難に堪えられなくなった「金日成」は朴甲東を釈放しました。
釈放された朴甲東は、「脱北」して、早稲田大学に留学経験のあった日本に亡命して、「成甲書房」という出版社を設立して、日本を拠点として、言論による「金日成と北朝鮮批判」を展開して現在に至ります。
「成りすまし金日成」こと金聖柱」を暴いた、韓国の李命英の「金日成は4人いた」も「成甲書房」から出版しています。
《中国「延安派」も粛清》
「延安派」とは、中国共産党の根拠地の延安を発祥とする、毛沢東らと親しい朝鮮人達でした。
彼等は、粛清の気配を感じると、機先を制して、中国国内にほとんど逃亡してしまいました。
《1967年、「甲山派」を粛清して、「独裁体制」の完了》
「甲山派(こうざんは;カプサンハ)」という、朝鮮半島の最北部の甲山という山岳地帯に根拠を置いていた独立運動派がいました。
そのリーダーが、朴金喆(パク・クムチョル)でした。
表向きは、「金日成」との「路線対立」で粛清されたことになっていますが、この人物は、「成りすまし金日成」こと金聖柱の正体を知りながら、「金日成」に同調して生き残ってきた人物でした。
何故なら、朴金喆(パク・クムチョル)は、北朝鮮の「抗日パルチザン活動」の伝説となっている普天堡の戦い(ふてんほのたたかい)に参加した人でした。
従って、一緒に戦った金成柱(後に満州国軍警に射殺された)の風貌をよく知っていたのです。
生前、朴甲東が、朴金喆(パク・クムチョル)に、伝説の金成柱について聞くと、身長は165cm前後で、終戦の1945年当時生存していれば50代前半と語っていました。
朴甲東は、この「証言」で、「成りすまし金日成」こと金聖柱」を見破ったのです。
何故なら、1945年10月、ソ連軍に先導され、平壌に出現した「金日成」の身長は175cmだったからです。
このように「金日成」は、ライバルを粛清するだけでなく「自分の正体」を知っている人間を悉く消していったのです。
※続きます。