書籍化されました
台湾との関係
《自称「親台湾派」議員》
Wikipediaには
外務副大臣在任中、台湾総統(当時)・李登輝の訪日を実現した[要出典]。なお当時の外務大臣だった河野洋平は、李登輝へのビザ発給に最後まで難色を示していたため、衛藤は河野に抗議し[要出典]、大勇会を退会した。
転載以上
と有りますが、2001年4月の「李登輝総統の訪日を実現した」には「要出典」が警告されています。衛藤征士郎が自分の手柄にしたいがための「誇張」です。
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《李登輝総統の訪日を実現したのは当時の森喜朗総理》
Wikipediaの森喜朗の項に
対台湾
2001年4月、李登輝の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した河野洋平外務大臣が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、福田康夫内閣官房長官も強く反対したが、森は「李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない」と判断し、李の訪日が実現した。この時は殆どの全国紙が賛意を示したと回顧している[88]。
と有ります。
今現在でも「習近平の子分の二階派」の影響力が強く、外務省も「チャイナスクール」で占められている中で、中国の「猛反対」という外交圧力をはねのけられるのは、「時の総理」という最高権力者の決断しかありません。
森喜朗の決断を後押ししたのは、その時側近だった現在の安倍総理だと聞いています。
《「朝鮮半島大好き」衛藤征士郎》
衛藤が「拉致問題の完全解決」の障害となる「日朝国交正常化議連」の代表であることは既に述べましたが、北朝鮮のみならず「韓国」も大好きです。所属する「議連」を見ると
・日韓海底トンネル推進議員連盟(代表)
・日韓議員連盟(副会長)
かつて全日本テコンドー協会の会長まで勤めていたのだから、なにおかいわんやです。
《台湾人の立場に立てばわかる「親台湾派議員」と「親韓派議員」が両立できない理由》
【台韓断交】Wikipediaより
「台韓関係」
1992年8月24日に、大韓民国政府が中華人民共和国と国交を樹立することを発表すると、中華民国(台湾)は断交を回避すべく大韓民国側と幾度なく交渉を行ってきたが、韓国側の答えは「断交などあり得ない」というものだった。
にもかかわらず、大韓民国は「一つの中国論」に基づいて中華民国(台湾)との断交に踏み切り、断交したその日のうちに駐大韓民国中華民国大使館 の保有資産を中華人民共和国名義に変更した。
この為、台湾人の対韓感情は著しく悪化し、暫くの間両国間の交流は途絶えることとなり、両国間の定期直航便も12年に亘って中断されることとなり、台湾から韓国へ向かう観光客の年間総数も、1992年には42万人だったのが、翌1993年には20万人にまで落ち込んだ。
《「強者」には媚び、「弱者」は騙す朝鮮人伝統の「事大主義」》
戦後、台湾を「実効支配」していた蒋介石、蒋経国父子死後、初めて「台湾人」として中華民国総統となった李登輝総統と台湾の人々は「国際的孤立感」に苛まれていました。
1972年2月、アメリカのニクソン大統領の訪中による米台断交。
1972年9月、田中角栄訪中による「日中正常化」による台湾との断交。
「米ソ冷戦下でのソ連牽制」「ベトナム戦争の撤退を視野に入れた米中接近」でしたが、「反共の盟友」の日米に断交された中華民国と台湾国民には打撃でした。
1988年の李登輝の「中華民国総統就任」によって、「民主化」と「本土化(台湾人による台湾)」を果たして、李登輝総統のもと、台湾の人々は「台湾人による独自外交」を始めたばかりでした。
「西側(自由主義圏)」で唯一、国交のあった韓国に断交されることによる外交的打撃は計り知れないものが有りました。
断交されたくない台湾の足元を見た韓国は、「断交など有り得ない」と騙しながら、性能が悪くて売れない現代自動車の車を何百台と台湾に買わせておきながら、裏切ったのです。
同時に、断交した当日中に「台湾大使館」の財産を「名義を韓国に書き換える」=強奪するとはひどいものです。
日本は1972年に台湾と断交した時に、副総理の椎名悦三郎を台湾まで謝りに行かせました。
椎名は、台北で怒った市民から、トマトを投げつけられるという災難に遭いましたが。
《衛藤征士郎が訪台して会った馬英九総統は「親中派」》
画像はhttps://www.seishiro.jp/archives/607.html
Wikipediaより
2011年5月には台湾による東日本大震災の被災者支援に感謝の意を示すため、台湾を訪問した。
2012年3月には再度台湾を訪問し、馬英九総統に面会した。
2度訪台しているようですが、2度とも台湾総統が馬英九の時です。
馬英九
Wikipediaより
1950年7月生まれ70歳 )は、中華民国の政治家、法学博士(ハーバード大学)。
第6代中華民国総統(12期・13期)を務めた。
生い立ち
馬英九の祖籍は中国湖南省湘潭県馬家堰であり、香港の九龍で出生した外省人(広東省深圳との資料もある)。
5人兄弟姉妹の中で唯一の男児として育てられた。
出生後まもない1950年、両親とともに台湾に移住し、台北市で育つ。
台湾の外省人(戦後、蒋介石の中国国民党軍とともに大陸から台湾に来た人々)ですらなく、移民ですね。
そして、姓が「馬」ですから、本人は隠していますが、中国大陸に散らばって住んでいる「回族(かいぞく)」=イスラム教徒だと思います。
読者の皆様は、中国の領土内のイスラム教徒というと、現在、習近平政権から弾圧されているウィグル族をすぐに、想起されるでしょうが、彼らは人種もトルコ系で、いわゆる漢人とは違います。
馬英九、音読みすると「ばえいきゅう」ですが、中国語の発音は「マー・インチュウ」です。
「マー」は「マホメット」につながるのです。
中国の王朝は、古代より、トルコ系の人物が王朝をたてたケースが多いです。
代表的なのは、世界帝国の「唐王朝」の開祖、李世民はトルコ系だと言われています。
ちなみに「民族」としての「漢民族」はあっても人種としての「漢人種」はいません。
西域、内モンゴル、チベットを除く、中国大陸中央部に住む「漢民族」の人たちは、古代より、
先住民族と、トルコ系、チベット系の人々が複雑に混血を繰り返して今に至っています。
従って、21世紀の今に至っても、見た目は中国人でも、地域、集落によって、イスラム教の信仰を捨てていない人は沢山います。
「馬」姓の中国人にイスラム教徒が多いということは、私は20世紀の日本の国民作家、司馬遼太郎の兄貴分の作家の台湾人、陳舜臣(ちんしゅんしん)の「中国の歴史」で知りました。
陳舜臣
1924年(大正13年)生まれ – 2015年(平成27年)没は、推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。
代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。
神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1990年に日本国籍を取得している。日本芸術院会員。
ちなみに、イギリスの国名を「英国」と書くのは、「英」の字の中国語の発音が「イン」→イングリッシュだからです。
話しはそれましたが、馬英九は、その「出自」故「台湾人」のアイデンティティーを持ち得ませんでした。
選挙の為に、台湾人の「価値観」に寄り添えず、「親中派」として知られ、2期目は台湾と中国の「統一」さえ、否定しなくなりました。
政治的統一の前に「経済的統一」を意味する「海峡両岸貿易協定」を2014年3月に締結しようとして「ひまわり学生運動」によって阻止されたのは記憶に新しいところです。
それにより「求心力」を失い、任期を終え2016年1月の総統選挙で「独立派」の蔡英文総統が誕生しました。
「親台湾派」の私にとっては、馬英九が総統の間は、いつ台湾が中国に飲み込まれるか心配で冷や冷やして台湾情勢を見守ったものです。
この様に、大陸出身の馬英九は、台湾の本省人(日本統治時代からの台湾人)からも、日本人の「親台湾派」からも信用されなかった人物でした。
朝鮮総連との関係
《「拉致問題」の「救う会」会長の西岡力教授が確信する衛藤征士郎と朝鮮総連の関係》
「韓国の慰安婦詐欺事件」と「北朝鮮の拉致問題」に取り組んできた西岡力教授は最新の著書「歴史を捏造する反日国家・韓国」(WAC出版)で以下の様に述べています。
P286
私は最近、衛藤氏が自民党の会議で外務省局長らになぜ早く日朝会談を持たないのかと叱責する場面を目撃した。また、議員外交を強調しているから2010年に断念した議連としての訪朝を狙っているのだろう。
衛藤氏の後ろに朝鮮総連がいるはずだ。
「拉致問題」に取り組み始めてから朝鮮総連に脅迫された経験のある西岡教授が「確信」しているのだから、衛藤征士郎は限りなく「北朝鮮の工作員」に近いと言えるでしょう。
チャンネル桜の「討論会 都知事選後の日本」にパネラーとして出席した西岡教授は、司会の水島総から、小池の再選についての感想を聞かれて
「小池都知事には4年前、都知事に就任した直後に会って、「東京都の朝鮮大学校は北朝鮮の「工作員」の養成所だから「認可」を取り消してください。」とお願いしましたが返事は有りませんでした。そして結局認可の取り消しはしてくれませんでした」と淡々と述べていました。
私がそう発言している西岡教授の表情と口調から受けた印象は「最初から期待していなかったけど、やはりやってくれなかった」と言いたげに見えました。