デジタル田園都市構想の闇と「竹中ーパソナ利権」
デジタル田園都市構想の闇と「竹中ショック」
「旧大蔵省・財務省閨閥」「岸田ー宮沢閨閥」の中心にいる岸田首相は実は早くから竹中平蔵を知っていたのではないか?
【デジタル田園都市構想の闇】
「竹中平蔵騒動」で炎上した「デジタルなんちゃら」だが公開情報を隈なく収集すると意外な事実が私の情報網に引っかかった。
そもそも「田園都市構想」とはWikiに田園都市構想(大平正芳首相時代)があったので確認すると非常に「不都合な人物」を発見した。
元大蔵官僚の長富祐一郎だ。
長富 祐一郎 (1934-2013)
長富 祐一郎(ながとみ ゆういちろう、1934年 – 2013年1月24日)は、兵庫県出身の大蔵官僚。
元関税局長。 岳父は清宮博(富士通社長)。 叙正四位。
[学歴]
福岡市立大名小学校、
福岡学芸大学附属中学校(現在の福岡教育大学附属福岡中学校)、
東京都立日比谷高等学校(市川学園中学校からの転入)卒業
1958年(昭和33年)3月:東京大学法学部卒業
[職歴]
1958年4月:大蔵省入省
1972年5月:証券局資本市場課 課長補佐 大臣官房文書課 課長補佐 大臣官房広報室長
1978年1月:内閣審議官(兼任、~2月)(牛場信彦対外経済大臣付)
1978年12月:大臣官房付参事官兼内閣審議…
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/145797.html
★大平時代の「田園都市構想」の事務型取りまとめ役がこの長富だった。
何故「不都合」かと言うと、この長富祐一郎が大蔵省の財政金融研究所所長時代に日本開発銀行を首になった竹中平蔵を拾って、自分の側近として縦横に使い後の竹中の政界、財界との人脈づくりをさせた「大恩人」であるからだ。
当時長富は1978年12月:総理大臣補佐官として「大平研究会」を事実上取り仕切った。
この「大平研究会」の産物が「田園都市構想」である。こ
の経緯から岸田首相が個人的に竹中平蔵をリスペクトし「デジタル田園会議」のメンバーに人選したとしたら、自民党総裁選の公約の「新自由主義からの転換」は総裁選に勝つ為の「確信犯的な大嘘」ということになる(怒)
自民党支持者や保守の知識層を騙したのだ。
「大平正芳の田園都市構想」のWikiに長富祐一郎の名前があったから、総裁選の告示前に「岸田BOX]に私の危惧を伝えようと思ったが多忙の為時機を逸した。
更に驚くのは今見たら「大平正芳の田園都市構想」のWikipedia自体が検索できない。
岸田首相と官邸側近が消させたのか?疑念が募る。
【補足】長富祐一郎と竹中平蔵の「切っても切れない関係」は下記の佐々木実の名著に詳述されている
P67~100まで嫌と言うほど出て来る。
政治学者の牧原出は長富を「国際派の官房型官僚」と分類している。
要するに主計局や主税局で実務を通じて専門性を磨くのではなく、調査部門や官邸などに出向して昇進を狙うタイプである。
しかし、本書を読後、長富祐一郎には別の印象を持った「金に汚い政商型官僚」である。
何故なら、日本開発銀行を首になった竹中の受け皿にしたのが「財政金融研究所」だが、この設立にあたっては当時の大蔵省の監督官庁としての権力と権威をフル活用して銀行界から有無を言わせず巨額の「設立資金」を出させているからだ。
まさに「金に汚い政商型官僚」として「政商竹中平蔵」とはケミストリー(相性)がベストだったのである。
私が長富祐一郎についてネガティブな評価を下したのは、大蔵省での彼の最終ポストが「関税局長」だからである。
関税局長ポストはある意味「懲罰的・屈辱的ポスト」であり、官房長から人事を打診されると「関税局長にされるぐらいなら外に出して欲しい(天下り)」と泣きつくキャリア官僚が多いそうだ。
竹中の師匠の長富は現在の「竹中の日本中の評判」同様、大蔵省内でも芳しいものではなかったのだろう。
「田園都市構想」をぶち上げた「大平研究会」は1980年大平が急死すると自然解散となったが、長富は「大平研究会」の構想を
大蔵省に持ち帰り、「ソフトノミックス」と言うコンセプトを社会に売り出そうとする。
竹中は1982年10月から長富の下で財政金融研究所で働き始めている。
「旧大蔵省・財務省閨閥」「岸田ー宮沢閨閥」の中心にいる岸田首相は実は早くから竹中平蔵を知っていたのではないか?
旧大蔵省に入省し、財務省でも主流を行く東大法学部卒の財務官僚は一橋出の竹中を軽蔑している者が多いと聞くが早大での岸田首相には「多くの日本人が持つ竹中アレルギー」に鈍感なのかもしれない。
また、竹中のことを経済学者と勘違いしているとしたら「絶望的」である。
以上