金銭解雇の合法化は経団連(=トヨタ)の30年来の悲願
1995年経団連(豊田章一郎副会長)は自民党に「雇用の流動化」の要望書を提出。「製造現場で非正規労働者を使わせろ」と言う内容。
9年後の2004年に小泉政権で竹中平蔵が派遣労働者の製造業への適用を解禁しました。
拙著の該当箇所と親子二代で「日本の雇用を破壊」し「少子高齢化の原因」となった国民共通の敵です。
竹中平蔵は嘘を付いている
2004年3月1日から労働者派遣法の製造業への適用が解禁となりました。
非正規労働者が大量に産まれこの人達は4年後2008年のリーマンショックで「大量の派遣切り」に遭い年越し派遣村まで出来ました。
竹中は今も派遣労働者の製造業解禁を決めたのは当時の厚労大臣で私ではないと責任転嫁しています。この時の厚労大臣は坂口力で公明党の議員でした。
竹中は労働者派遣法の所管は厚労大臣ですから決めたのは坂口であって自分ではないと嘘を付いているのです。
派遣労働の製造業の解禁は実際にはその前年の2003年6月に政府の「規制緩和小委員会」で座長のオリックス会長の宮内義彦と竹中平蔵の二人で既に決定されており
公明党出身の坂口大臣は国会で嫌いやながら法案説明と質疑応答をさせられただけです。
竹中平蔵らのネオリベ(新自由主義)の常套手段は先ず「仮想敵」を作る事と次は批判を浴びた時の「人身御供」をトカゲの尻尾切りとして準備する事です。
オリックスの宮内義彦は1996年に橋本龍太郎内閣の規制緩和小委員会の座長に就任しましたが以前から竹中平蔵とは「対日破壊工作員」仲間として非常に緊密な中でした。
竹中平蔵は1998年5月に宮内に誘われて正式メンバーになりました。
要するに豊田章一郎経団連副会長が自民党に「雇用の流動化」を答申したのが1995年ですから早くも翌年の1996年には工作員の宮内義彦が政権内に入り込み
2年後の1998年には竹中平蔵が引き入れられ5年後の2003年6月には派遣労働の製造業解禁までゴールとして決められたのです。
この時点で全労働者に占める非正規40%時代のレールが敷かれたのです。法律の施行は2004年3月からです。