続きです。
《向田邦子謀殺疑惑》
1981年(昭和56年)8月、「時代を支配した」一人の天才女性脚本家が台湾で不可解な不慮の死を遂げた。航空機事故だった。
向田邦子とは・・・Wikiより
1929年(昭和4年)11月28日 – 1981年(昭和56年)8月22日)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞を受賞。
週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。
現在(平成30年)では中学2年生の国語の教科書に、「眠る盃」から出典された「字のない葉書」が載っている。
(中略)
新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。
1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。
法名は、芳章院釋清邦大姉。墓所は東京都府中市の多磨霊園。墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」[2]であった。
1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。
遅筆、乱筆で有名であり、切羽詰まると「四」の字を横棒4本で済ましたという逸話がある[3]。
1971年(昭和46年)、テレビドラマ『時間ですよ』脚本。1974年(昭和49年)、テレビドラマ『寺内貫太郎一家』脚本。
1975年(昭和50年)、乳癌の手術を受ける。術後は輸血による肝炎と右腕が動かない等の後遺症に苦しめられる。
1976年(昭和51年)、銀座百点に『父の詫び状』を連載開始する。当初は後遺症により右手が使えないため、左手で執筆していた。
1977年(昭和52年)、テレビドラマ『冬の運動会』『だいこんの花パート2』脚本。
1978年(昭和53年)、妹の和子が小料理屋「ままや」を開店。テレビドラマ『家族熱』脚本。初のエッセイ集『父の詫び状』刊行。
1979年(昭和54年)、テレビドラマ『阿修羅のごとく』脚本。
1980年(昭和55年)
『源氏物語』(TBS)、土曜ドラマ『阿修羅のごとくI・II』、ドラマ人間模様『あ、うん』(NHK)の脚本で第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[5]。
短篇の連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞。
転載以上
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もう亡くなって40年近くたつんですね。
アラフォーの読者は知らないと思いますが、私の父とほぼ同じ年代だし、地方の少年だった私にとっては、テレビドラマ「時間ですよ」と「寺内貫太郎一家」はとてつもなく面白いドラマでした。
「才能」というものを「固形物」にしたような脚本家でした。
墓名碑を、芸能界の重鎮の故森繁久弥が書いたということは、如何にこの人の「存在」が巨大だったかの証左です。
向田邦子を知らない読者には下記の木下淳一さんのエッセイを参考にしてほしい。
タイトル あれから36年、向田邦子を偲んで
https://web.archive.org/web/20190315192509/https://www.nippon.com/ja/column/g00432/?pnum=1
https://web.archive.org/web/20190315192905/https://www.nippon.com/ja/column/g00432/?pnum=2
https://web.archive.org/web/20190315193041/https://www.nippon.com/ja/column/g00432/?pnum=3
生年月日からも分かるように、彼女は台湾でいうと日本語教育を受けたおじいさん、おばあさん世代の人であって、現代社会で活躍する人気作家ではない。かといって夏目漱石や芥川龍之介のように作品が教科書に載るような文豪かといえば、そうでもない。にもかかわらず、没後40年近くにわたって多くの人から慕われるという類いまれなる作家だ。
彼女の作品の特徴としてよくいわれるのが「昭和」という時代を見事に描いているということだ。
「昭和」というのは26年から89年までの64年間(89年は平成元年と同年)だが、このうち50年代から60年代を背景にした彼女の作品は秀逸だと思う。このころの日本はちょうど戦後の復興から高度経済成長期に向かう激動の時代。そんな中で、今よりずっと強かった家族の絆というものを生き生きと描いている。だから、平成に生きる日本人にとっては、向田作品に触れることは失われた大切なものを思い出すとともに、懐かしい良き時代に浸る機会でもあるのだ。
(中略)
日本の文芸作品というのは古くから今日に至るまで、勧善懲悪や義理人情といったウエット(wet)なエッセンスの混じるものが好まれるように思う。その方が日本人にとって、読んでいてなじむというか、落ち着くのかもしれない。この点では、家族の絆を描くのが得意な向田作品は十分すぎるほどその条件を満たしている。
ただ、向田邦子がすごいのは、こうしたベースを持ちながらも、同時にドライ(dry)な感性も備えていることだ。それは鋭い観察力に裏付けられたもので、これによって彼女は物事の本質をバサっと一刀両断。読む者に心地よい余韻を与えてくれる。
(中略)
ところで、これら一連の活動を行う中で、実はぼくが思っていた以上に台湾には向田作品のファンがいることが分かった。例えば新聞で記事を書くと、読者からメールが来ることが多い。彼らはみんな向田作品のファンで、中には事故現場まで足を運んだ人もいた。
『眠る盃』(講談社文庫)
現在、台湾でも数冊の向田作品が出版されている。『父の詫び状』、『眠る盃』、『思い出トランプ』、『霊長類人科動物図鑑』『隣りの女』『あ・うん』のほか、『阿修羅のごとく』などテレビドラマの原作版もある。こうした作品が40年近い時間を経て、台湾で出版され、しかも確実にファンを増やしていることは向田作品の一ファンとしてもうれしい限りだ。
さて、ここで一つ不思議に思うことがある。
前述のように、向田作品は「昭和」のエッセンスが色濃く含まれているが、当時の日本、当時の日本人の家族について、どうして台湾の人たちは知っているのだろうということだ。
登場人物の頑固なお父さん、その陰で支えるお母さん、不満気にお父さんの言い付けをちゃんと守る子供たち、ずるずると不倫にはまる若い女性・・・。
不倫の女性を除いて、今ではほとんど見かけなくなってしまったキャラクターばかりだ。にもかかわらず、どうして台湾人はこれらが実感できるのだろうか。
そこで、知り合いを何人か集めて読書会を開き、質問してみた。すると、意外なことに気付いた。
若い世代は別にして、四十代以上では多くの人が「昭和」と共通する感覚を持ち合わせていたのだ。「お父さんは怖かった」とか、「家族がみんな一つの部屋で寝てた」とか、当時の日本と同じような体験があるというのだ。それに作品の中に登場する小物。給食に出て来る牛乳瓶とかブリキのバケツとか、こういうものは実際に使ったことがある人も少なくなかった。さすがにこれは知らないだろうと思って「縁側」を聞いてみると、「あそこに座ってスイカを食べるんだよね。庭に向かってタネをぺっと吐いたりしながら」。
転載以上
引用が長くなりすぎたが、興味を持った読者は、書籍でもDVDでもいいから、向田作品に接してもらいたい。
彼女は「今日よりは必ず良い明日」という「昭和の時代精神」の体現者であり、30年も続いたが、「明日は今日よりも間違いなく悪くなる」日の続いた「魔の平成時代」とは違うのだ。
台湾という国
《私と「台湾」の接点》
平成になり、程なくして私をかわいがってくれた大叔父が亡くなった。
大叔父は戦前は内務省警保局で特高警察の職に就いていた。
主要任務は共産主義者などの「思想犯」と朝鮮独立運動家の取り締まり、及び検挙だった。
以下は大叔父と大叔母から聞いた話である。
戦時下の鹿児島、夜間に市内を巡回していた彼は、不審人物に気づいて誰何(すいか;あなたは誰かと聞く)した。
すると、連日のB29の空襲で下宿を焼け出され、寒さと飢えに苦しむ台湾人の留学生だった。
哀れに思った彼は、その青年を自宅に下宿させ面倒を見た。
2年後、終戦を迎え、台湾が蒋介石ら中国国民党の実効支配化になると、彼は台湾に帰国した。
戦後GHQにより「国家警察」が解体されると大叔父は、見切りをつけて役人を止めて、市内で会社を経営するようになった。
終戦から、25年たった1970年、大叔父の元にその時の台湾人青年が訪ねてきた。
彼は、帰国後、台湾大学からアメリカに留学して、台湾では有名な原子物理学者になった。
検索して驚いたのは2011年時点で未だ御存命だったという事実だ。
当時は台湾の某大学の教授だったようです。
皮肉にも「原発反対論者」になっていたんですね。
今日気づきました(爆)
それにしても自分の記憶力の良さに驚きました(笑)
話しは飛びましたが、大叔父夫妻は教授に、台湾に招待され、下にも置かないもてなしを受けたそうです。
台湾中を案内され、当時中共と一触即発だった最前線の「金門島」も見学させてもらったそうです。夫妻は大変喜んでいました。
私は当然、教授とは全くコンタクトもなく、大叔父の家に遊びに行ったときに、写真を見せて、話しを聞いただけです。
その時、大叔父が言ったのは「台湾人は恩義を忘れないんだ」この言葉を今でも覚えています。
どこかの隣国とは真逆ですね。あっちは「恩をあだで返すんだから(怒)」
《台湾との接触②》
NECの同期入社に、早稲田出身の飲み友達がいました。
仮にA君としておきましょう。
彼は「海外営業部」という、言わば社内の「商社セクション」で、アジア一帯を担当していました。
凄いことに、入社前から中国語がネイティブでした。
学生時代から、台北に足繁く通いマスターしたそうです。
彼は骨の髄からの「親台湾派」で飲みに行くたびに耳にタコができるほど聞かされたのが以下のことです。
- 台湾の壮年世代(当時1980年代半ば)には日本語ペラペラの人が多い。
- 今でも、NHKで大相撲を楽しみ、酔えば戦前の軍歌を歌う。
- 「日本統治時代」の方がよかったと皆言っている(当時は国民党の独裁政権下)。
私は「本当かな~」と半信半疑で聞いていました。
《当時1980年代の日本人の「対台湾感」と「対韓国感」の温度差》
正直、今とは様変わりで、日本人の韓国に対する好感度と信頼感は高かったです。
「嫌韓」の今では信じられませんが。
何故なら、ソ連が崩壊するのが1991年です。
当時は「米ソ冷戦」の真っ最中で、核戦争の危機もあったし、共産主義の脅威も有りました。
ですから、朝鮮半島の38度線で、北朝鮮の南下を食い止めてくれている韓国には感謝すらしていました。
当時の韓国の大統領達も「現実主義者」でした。
朴正煕、全斗煥と軍事政権でしたが、「慰安婦」や「歴史問題」など馬鹿なことは言わなかった。
全斗煥
全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の領土[18]となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道された。
転載以上
とまで言っていました。
おかしくなったのは「民主化」して「文民政権」となった金永三以降です。
それに比べて、多くの日本人は台湾に関心がありませんでした。
日本と台湾(当時の中華民国)との外交は、田中角栄の1972年の日中正常化の代わりに「断交」されていましたから。
★日本人が台湾が世界最大の「親日国」だとようやくわかったのは、朝鮮人総理が続いた「民主党政権魔の3年間」に、3・11の東北大震災が起き、台湾が、米国を上回る、世界最高額の義捐金を寄付してくれたからです。
また当時は、在日出身の韓国の大統領の李明博が「竹島」に上陸して、日本を虚仮にして、一気に「嫌韓」機運が高まりました。
★台湾人は、1972年に日本から一方的に断行され裏切られても、その後今に至るまで、50年近く「親日」であり続けているのです。
《中国共産党と「親中派」の増えたNHKにとって、不都合な存在だった向田邦子》
死出の旅となった向田の台湾行きは「取材」が目的でした。
- 中国共産党にとって、台湾が熱烈な親日国であることを日本国民に知られることは不都合だった。
- 1980年代、NHKには、在日韓国朝鮮人の職員が大量に入局し、権力構造が「親米派」から「親中派」に大きく構造転換し始めていた。
中国共産党は向田邦子の様に「絶大な影響力」のある脚本家が、台湾の親日ぶりを日本の世論にアピールし、台湾の親日事情を強調するテレビドラマを作ることを非常に危惧していたと思います。
以下、推理を含んだフィクションです。
中国朝鮮族出身の「背乗り工作員」の金盗作(仮名)は、ラジオの台本で佳作を取ったものの、元々の才能がないために、テレビの脚本の仕事が一切来なかった。
金盗作にとって、テレビの脚本家の「枠」を取るためには、向田邦子は消さなければならない「大きな存在」だった。
金は、親しい真言系の教祖とともに、毎日ひたすら向田邦子に対して、呪詛を行った。
その結果
遠東航空103便が「空中分解」の結果墜落、生存者ゼロ
遠東航空103便墜落事故とは・・・Wikiより
1981年8月22日に台湾の航空会社の遠東航空機が巡航中に空中分解して墜落した航空事故である。
2016年現在、台湾で発生した航空事故としては二番目に多い犠牲者を出した事故となっている(最大の事故は1998年に発生したチャイナエアライン676便墜落事故(死者202名))。
事故の概略
台湾・台北松山空港発高雄行きの遠東航空103便ボーイング737-200(機体記号B-2603)が、台北を午前9:54に離陸して14分後、台北の南南西約150キロメートルの苗栗県三義郷上空高度22,000フィート(6,700メートル)を巡航中に突然空中分解し、山中に墜落した。
この事故で乗員6名、乗客104名の合わせて110名全員が死亡した。乗客には日本人18名が含まれていたが、その中に台湾への取材のため搭乗していた作家の向田邦子やシルクロード写真企画の火付け人であった志和池昭一郎がいたこともあって、日本社会に大きな衝撃を与えた。他にアメリカ人2名も犠牲となっている。
転載以上
★全員死亡とは凄いですね。しかも、日航機事故の様に山に激突したのではなく「空中分解」です。
生存者もいない、従って「証言者」もいません。
★事故を装った「謀殺」としか思えません。
当時も、中国共産党、人民解放軍参謀本部の工作員や特殊部隊が多数、台湾に潜伏していました。
《向田邦子が死んで一番得をしたのは誰か》
ラジオの台本屋でくすぶっていた井沢満とNHK内部の「親中派」と在日職員しかいないでしょう。
向田邦子という「巨大な存在」が消されて、日本のテレビ界、特にNHKに「脚本家枠」が一つ空席となりました。
それが証拠に、向田邦子が死亡した1981年以降、井沢満は初めてテレビの仕事が、舞い込み始めます(怒)
井沢満
https://web.archive.org/web/20190315221528/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B2%A2%E6%BA%80
代表作
テレビドラマ
- 1982年- 性的犯罪(YTV)
- 1983年- みちしるべ(NHK) – プラハ国際テレビ祭グランプリほか
- 1983年 – だから青春泣き虫甲子園(NHK)
- 1983年 – 話すことはない(NHK) – 文化庁芸術祭優秀賞
- 1984年- うさぎ、はねた!(CBC) – 日本民間放送連盟賞
- 1985年- しあわせの国 青い鳥ばたばた(NHK) – モンテカルロ・テレビ祭シルバーニンフ賞
- 1985年 – いちばん太鼓(NHK「連続テレビ小説」)
- 1985年 – 二度目のさよなら(NTV)
- 1987年- 夜明け前(NHK)
- 1988年- とっておきの青春(NHK)
- 1988年 – 別れぬ理由(TBS)
- 1988年 – 江夏八重子の生涯(NTV)
- 1989年- 青春家族(NHK「連続テレビ小説」)原作・脚本
- 1989年 – 氷点(ANB)
- 1990年- 外科医有森冴子シリーズ(NTV)
- 1991年- 君の名は(NHK「連続テレビ小説」)・・・オオゴケ「黒歴史ドラマ」
- 1993年- 同窓会(NTV)・・・・誰も評価しない「ハードゲイAV」
- 1994年- 夜に抱かれて(NTV)
- 1995年- 私はニュースキャスター 迷惑でしょうが(TBS)
- 1995年 – 好きやねん(YTV)
- 1996年- 小児病棟・命の季節(ANB)
- 1999年- 永遠のアトム・手塚治虫物語(TX)
- 2001年- 夏休みのサンタさん(NTV)
- 2001年 – つま恋(NHK) – 原作・脚本
★6年間、仕事なし
- 2007年- 母とママと、私(EX)
★5年間仕事なし・・・・世田谷の野沢から夜逃げ
以降、地方ローカル局しか相手にしてくれなくなる
・2012年- 恋味母娘(EX 第11回文芸社ドラマスペシャル)
・2013年- 母。わが子へ(MBS)
・2013年 – 命〜天国のママへ〜(TBS)
・2015年- わが家(MBS)
・2018年- 明日の君がもっと好き(テレビ朝日)
転載以上
向田邦子が死んだ翌年、1982年いきなり「性的犯罪」ですって(爆)
★ずっとこの「地」でやれる「変態路線」で行けばよかったんですよ(笑)
ところが、オオゴケ。
その後は「向田作品」をパクッて「矮小化路線」をひた走ります。
ドス子さんになりすましながら、BBの覚醒日記を書いたように、死んだ向田邦子になりきって、下手糞なホームドラマを書き続けたのではないのだろうか。
まあ、駄作のオンパレードですけどね(怒)