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ブレクジット(6)私のドイツ人論、侵略民族として
《ドイツ民族の「拡張主義」》
ドイツ騎士団とは・・・Wikiより
ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会
12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。
プロイセンなどを統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。
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北方十字軍とは・・・Wikiより
背景
教皇クレメンス3世の1193年の呼びかけが北方十字軍の公式の発端となったが、それ以前からすでにスカンディナヴィアのキリスト教国と神聖ローマ帝国は隣接する異教徒の諸国の征服に取りかかっていた。
※教皇クレメンス3世
遠征の対象となった非キリスト教の人々は、様々な時代のものを含めると以下の通りである。
ドイツ騎士団
北方十字軍は、12世紀終わりにパレスチナで設立されたドイツ騎士団のドイツ人騎士たちに、成長と拡大のための理論的根拠を提供した。
ドイツ騎士団は、教皇グレゴリウス9世による推薦を受けた。正教会を信奉するロシア(特にプスコフ公国とノヴゴロド公国)に対する征服の試みもまた北方十字軍の一部と考えられている。
プロイセン、リトアニア
リヴォニア帯剣騎士団が1236年の太陽の戦い(リトアニア人)に敗れた時、同時にエストニアでも反乱が続発し、リヴォニア騎士団はドイツ騎士団によって吸収合併され、ドイツ騎士団はバルト海地域を支配した。
ドイツ騎士団は最終的にリトアニアの征服を終わらせるため、リトアニアの王と后は1253年にキリスト教に洗礼した。
1385年リトアニアは正式にキリスト教に改宗した。
1240年、ロシアのプスコフを征服したドイツ騎士団。翌年アレクサンドル・ネフスキーにより回復された。セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『アレクサンドル・ネフスキー』より
1226年、ポーランドのマゾフシェ公コンラート1世は、異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[4]クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団はプロイセンを征服すると、リトアニア大公国と戦った。教皇の名の下、騎士団は教皇としてプロイセンを統治した。
ポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団との1410年グルンヴァルトの戦いでタタール人やチェコ人の援護を受け騎士団を破った。
ポーランド王国は十三年戦争でドイツ騎士団と戦い、プロイセンはプロイセン連合(または「闘争連合」「ゲバルト連合」とも呼ばれる)をポーランド・リトアニア連合と結成、ドイツ騎士団と対立しプロイセン公国となった。
騎士団は、15世紀にスラブ人の反撃を受けるまで大規模なドイツ人植民地を経営した。
以上
北の十字軍 山内進
この本に詳しく書いてあります。ご興味のある方はどうぞ。
★要するに、北方異教徒のキリスト教改宗を大義名分とした侵略と「植民地主義」です。
ドイツ人=ドイツ語を話す人々は、欧州の中央に住んでいるので、国の東西両方向に対する「拡張主義」が繰り返されます。
これは、西の、フランス人、イギリス人、東のスラブ人から見たら「侵略的民族」に目に映るでしょう。
《十字軍の本質とは何か》
十字軍―その非神話化 橋口倫介
聖地エルサレムに向かう巡礼が、セルジューク・トルコ人に苛められたことに激怒したローマ教皇が、英仏独の国王に、聖地奪回を命じたことに端を発しますが、彼らのやったことといえば、占領地エルサレムでのユダヤ人虐殺。同じキリスト教徒のビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させ、一時滅ぼしたりもしました。
★私の個人的な史観ですと
「キリスト教独善主義」による、異教徒に対する「非寛容」な侵略主義だと思います。
今でも、同じことをしている国がありますね。
大西洋を渡り、新大陸から、東へ東と膨張を続ける国。
そうです「アメリカ帝国」が「十字軍の思想」の正統的後継者です。
《バルト三国の本質》
バルト三国とは・・・Wikiより
バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)および経済協力開発機構(OECD)の加盟国、通貨もユーロでシェンゲン協定加盟国である。
歴史的に、エストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。 バルト三国はロシアとロシアの飛地に接している。
民族
エストニア人は、フィン人と近縁の民族で、エストニア語はフィンランド語と同じウラル語族である。
一方、ラトビア人とリトアニア人はバルト系民族(印欧語族バルト語派の話者)である。リトアニアが独自の文化を築いて来たのに比べ、ラトビアはリヴォニアを基礎としていたため、民族の覚醒は19世紀に起こる。
これら別個の文化を共通化、また自立化させたのは、中世以来政治的支配を行ってきた少数民族のバルト・ドイツ人であった。
以上
バルト・ドイツ人とは・・・Wikiより
主にバルト海東岸、現在のエストニアとラトビアに居住していた民族。
数世紀の間、彼らはその地域で社会、商業、政治、文化のエリートを組織した。エストニアやラトビアとともにバルト三国の一国とされるリトアニアは、他の2国とは歴史が異なるが、幾つかの都市に少数のバルト・ドイツ人商人の居住地があった。
ロシア帝国、特にサンクトペテルブルクでは何名か軍隊や市民生活で高い地位にも就いた。
★彼らは、「ドイツ騎士団の末裔」であり、「ドイツ騎士団植民地」の名残りです。
そして、バルト三国は、ドイツ本国と離れたドイツの「飛び地」と考えてよいでしょう。
《リトアニア独立革命》・・・Wikiより
20世紀後期にソビエト連邦の支配下にあったリトアニアの独立運動とその実現。リトアニアの独立運動はバルト三国全体の独立運動を主導し、最終的にソ連崩壊に大きな役割を果たした。
人間の鎖
リトアニアの独立運動は、ラトビア、エストニアなどと連携する(歌う革命)。独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年8月23日にはヴィリニュス、リーガ、タリンを結んで600キロにわたる、200万人の人間の鎖(バルトの道)が形成され、世界に独立を訴えた。
一方、ブラザウスカス第一書記が主導するリトアニア共産党も12月20日、ソ連共産党からの分離を宣言、一党独裁を放棄する。
以上
その後、1991年1月にゴルバチョフがソ連軍に介入させましたが、屈せず、1991年8月に「ソ連8月クーデター」により、ソ連が崩壊すると同時に独立を達成しました。
★ドイツ系の国なので小国といっても根性があるんですね。
《ドイツ人の意識には「敗北」という概念がないのではないか》
これは、私見ですが、ドイツという国、民族の「行動パターン」を見ているとそうとしか思えないのです。
彼らのやった戦争でも、政治的決断でも、隣国のフランスやイギリス、ロシア、アメリカ、日本から見て、明らかに「ドイツの敗北」と思えるものでも、彼らドイツ人から見れば「数ある失敗の一つ」に過ぎないのでしょう。
「失敗」なら、反省点をチェックし、次にやり方を変えて、再チャレンジすればよいだけです。
スポーツの国際試合でも同じ、負けてもくよくよしないし、卑屈にもならない、再度同じ相手と対戦しても臆することなく「先制攻撃」をかける。
「敗北」という概念が無いのだから、彼らの頭の中は、失敗したら「リベンジ(復讐)のエンドレスループ」が作動するだけ。負けた相手に勝つまでは。
そして一切の妥協を許さずに、軍事でも学問でも「徹底的に究める」。
★怖い民族です。
日本の隣国は、海を隔てて、朝鮮半島と中国大陸です。
朝鮮人は嫌ですが、日本人に勝るのは「人から盗み人をだます才能」だけです。
中国人もうるさいけど、人口が多いだけ。
「死を恐れる民族」の国の兵隊は弱いです。
近代史では、どんなに立派な武器を持たせても、必ず戦争に負ける国があります。
欧州ではフランスとイタリア。
日本の海上自衛隊が、韓国海軍と開戦したら、30分、中国海軍でも3日で、海自が完勝するといわれています。
★歴史のいたずらで、朝鮮半島の住人がドイツ人でなくて本当に良かったと思います。
もし、太古から半島に「ドイツ人国家」があったら、日本は大和朝廷の頃から征服され、属国にされていたでしょう。
戦争しても、2回に1回は負けていただろうし。
イギリスや、フランス、ポーランド、ロシアがドイツに「恐怖感」を抱くのはよくわかります。
続きます。