書籍化されました
朝鮮半島や満州在住の善良な朝鮮民族から忌み嫌われていた「朝鮮独立運動家」達の実態
前にも書きましたが、戦前の朝鮮半島や満州国で暴れまわっていた、と言ってもせいぜい数百人ですが、「朝鮮独立義勇軍」なるものは、所謂「馬賊」でした。
精強な朝鮮軍(朝鮮半島駐屯の帝国陸軍)や満州国軍との接触は避けて、朝鮮人の富裕層、特に商人や地主層を襲って、主人は殺害、妻や娘は強姦して拉致連行、金品を凌奪して放火して逃亡する「馬賊」以上でも以下でもありませんでした。
ですから善良な大日本帝国の「臣民」である朝鮮人達からは嫌われていました。
デニス・テンの高祖父の「高麗人」の様に、ソ連領の沿海州に「基地」を作って、満州国に侵入する。
そして、国境沿いの「同胞」の朝鮮人の村落を襲っては、「独立資金」を名目にゆすりたかりを繰り返すものだから、朝鮮族(現在は中国国籍)の村長は連中が来ると、近くに駐屯する満州国軍(日本人と朝鮮人の混成)に救援を求めるのが習慣になりました。
1945年8月15日、日本がポツダム宣言を「受諾」して、昭和天皇が「玉音放送」で「停戦」を命じます。
ポツダム宣言には、台湾、千島列島、南樺太の「施政権=行政権」を放棄することと有りました。
ですから、日本は例えば、台湾などを統治する権利は放棄しましたが、「何国」に割譲せよとは、ポツダム宣言ではうたっていません。
しかも、その条件のまま、7年後の1952年、サンフランシスコ講和条約で、日本は戦後体制を「追認」したまま独立しました。
従って、国際法上は、「台湾の主権は未だ日本にある」と前の記事で述べたとおりです。
しかし、ポツダム宣言では「朝鮮半島は独立させること」とうたっています。
従って、1945年8月15日以降は、38度線以南の南朝鮮は、日本同様、米軍の軍政が始まり、やっと3年後の1948年8月15日に、米軍の軍政地帯のみ「大韓民国」として独立しました。
韓国の憲法の「前文」では歴史事実と異なることが書かれている
大韓民国憲法・・・・・Wikiより
前文
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台とした自由民主的基本秩序をより確固にし、政治・経済・社会・文化のすべての領域に於いて各人の機会を均等にし、能力を最高に発揮なされ、自由と権利による責任と義務を果すようにし、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定され8次に亘り改正された憲法を再度国会の議決を経って国民投票によって改正する。
日本語への翻訳が難しかったのか、それとも本来「朝鮮語」は論理的な言語ではないのか、息継ぎなしの長文ですが、8度の憲法改正があったとはいえ、1948年の憲法制定当時は、韓国は今の様に「漢字廃止」していませんから、趣旨、特に最初の2行は変わっていません。
ポイントは
「3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」・・・・です。
ここに「大韓民国の成立の歴史的経緯」が明言されています。
3・1運動とは・・・Wikiより
1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動。
引用が長くなるので、私の言葉で短くまとめると、この後首謀者33名は、ソウルのパゴタ公園で「独立宣言」を読み上げました。
1910年の日韓併合から8年間、現役軍人による朝鮮総督の「武断統治」でフラストレーションがたまっていたところに、「統治能力」と「当事者能力」がなく、「統治権」を日本に放り投げた高宗の崩御が、センチメンタリズムを呼んで、半島全土に広がった暴動で、本格的な「独立運動」「武力蜂起」ではありませんでした。
反乱軍に対する寛大すぎる大日本帝国側の処置
運動の終息
朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息していった[14]。
司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。
1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名[15]。
きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。
下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。
高等法院で確定した刑期も、1920年(大正9年)の大赦令によりさらに半減されている。
一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折した[16]。
その後の朝鮮半島地域は日本の統治に服し、1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。
★「火病」を起こした朝鮮人暴徒により、日本人が惨殺されたとの話もありますが、まだまだ詳細な研究の余地がありますが、日本側の被害は官憲8名となっています。
大英帝国は反乱を起こしたインド人に対して、裁判なしで虐殺しています。
逮捕者約1万2千名、起訴されたもの約6400名、実刑はたったの14名
★裁判の結果、有罪となったのは約3900名ですが、実刑を喰らったのはたったの14名。
量刑も最も多くて懲役3年。
韓国の人がどう思うかはわかりませんが、大日本帝国の「司法」は「内乱罪」を適用しませんでした。
有罪判決が出たものの、実刑を喰らった14名以外の3953人は、「訓戒処分」などですから、今で言うと「公務員の不祥事レベル」の「文書による処罰」です。
首謀者14名の、3年以下の懲役も、戦後の日本で言えば、全学連などの学生運動で、建物に放火したレベルの量刑でしょうか。
「独立を求めた大規模武力蜂起」と言うよりは、戦後日本の1960年代後半の学生運動の逮捕者に対する処罰によく似ています。
勿論、日本も「反省」して、暴動鎮圧後は、朝鮮総督府は穏やかな「文治統治」に変えます。
後の、南次郎総督(陸軍大臣)の様に、朝鮮民衆に呼びかけるときは韓服(チマチョゴリ)を礼装として用いた人もいます。
※続きます。