書籍化されました
《「建国後初の反日大統領」金泳三の招いた自業自得》
1997年の韓国のIMF危機が発生した時の大統領が金泳三(キムヨンサム)でした。
最後の「軍事政権」である、盧泰愚(ノテウ)大統領の後の「初の民主化運動家出身」の大統領であると同時に、「露骨な反日言動」を繰り返した初の大統領でした。
就任早々「日本を躾けなおしてやる」と公言したり、独立後、一時は大統領官邸でもあり、全斗煥の時に、巨額の費用でリフォームして「歴史博物館」になっていた旧朝鮮総督府のビルを、景福宮にとって「風水的」に良くないといった迷信で爆破してしまいました。
それや、これやで総合的に「日韓関係」が悪くなっていたので、いけずうずうしくも、IMFの指導を受け入れる前、日本から単独金融支援を獲得して事態を彌縫しようとつとめたが、これは拒絶されていました。
話を戻しますと、李明博には、2008年、9年前1997年の「トラウマ」があったから、中川昭一財務大臣に、「日本の親韓勢力」を動かして、「圧力」をかけてまで、日韓通貨スワップを結ぼうとしたのです。
《「国士」だった故中川昭一財務大臣に圧力を加えられるのは元総理の中曽根康弘しかいない》
これは、私の推理ですが、当時の日韓議員連盟の自民党代議士たちを見ても、「格」の上で、中川昭一氏が頭が上がらない先輩議員は見当たらないからです。
中曽根のWiki
2008年12月7日に自宅で転倒し、右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けている。
また同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。
★「同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。」・・・・・・と有ります。
故中川昭一さんの実父の中川一郎氏(不自然な自殺)とは、中曽根は昭和57年(1982年)の自民党総裁選で争った中です。
総理として大先輩の鳩山一郎関連の催しに参加するのはお仕事としても、実の息子より若い、中川昭一さんの告別式に参加するとは、「日韓通貨スワップ」を納得させるぐらいの「影響力」があったということでしょう。
そう言えば、故中川昭一さんが、失脚し、落選するきっかけとなった、有名な「酩酊事件」、記憶にある方も多いとは思いますが、
「朦朧記者会見」中川昭一・・・・・Wikiより
朦朧記者会見
2009年(平成21年)2月14日、G7の財務大臣・中央銀行総裁会議が、イタリア・ローマで開催された。同会議終了後、日本銀行総裁・白川方明と財務官・篠原尚之との共同記者会見に臨んだ中川だったが、その発言は呂律が回っておらず、あくびをし、表情は目が虚ろという状態であった。さらに中川は、言い間違いをする、質問した記者が見つけられずに「どこだ!」と叫ぶ、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をするなどの異状を呈したことから、健康不安や酩酊などが疑われることになった[67]。マスメディアはこれを、「深酒居眠り会見」[68]などと報じた。
帰国後中川は、「(問題となった会見前にワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と説明した[69]。
また、原因は、往路の機内における抗ヒスタミン作用を含む感冒薬[70]とアルコールの同時摂取[注 26]、あるいは風邪薬単独の大量服用であると説明された[72]。会見の前、中川がG7の昼食会を中座してホテルで昼食を採りワインに口をつけたが、1本のワインを6名で分けたものであり、その場に読売新聞記者、中川の高校の同期でもある財務省国際局長の玉木林太郎、財務官僚二名、通訳、居合わせた中川の知人が同席していたことを、川内博史の質問に答えて玉木が証言した[73]。
《この時問題となったのが、同席した読売新聞記者の越前谷知子だった》
越前谷知子「これから面白いものが見れるわよ」会見直前
「読売新聞記者」と言うのが、「財務省番」の女性辣腕記者と言われた越前谷知子です。
当時は、週刊誌ベースでも、中川氏の飲み物に、越前谷が「意識をもうろうとさせる何か」を盛った。とか、会見直前に「これから面白いものが見れるわよ」と同席したブルンバーグ社の女性記者に話していた、ということが話題になりました。
あまりに騒がれたのでネットを含めた「あらゆる言語空間」から越前谷知子はその後、姿を消しましたが、私が引っかかったのが、彼女が所属する世界一発行部数が多い新聞社の読売の「ドン」こと「ナベツネ」です。
渡邊恒雄とは・・・・・Wikiより
日本の新聞記者、実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られる[1]。
株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。
1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[23]。
★「老害」の代名詞ですが、この古手の政治記者が、中曽根を総理にするために、田中角栄の事務所に日参したり、あらゆる努力を惜しまなかったことは、周知の事実であり本人も認めるところです。
★「国士」ではあるが「反韓感情」の強かった、中川昭一氏を、ナベツネを経由して、越前谷知子に一服盛らせたのは中曽根ではないか。
飽くまでも、私の「推理」の域を出ませんが、「老骨」に鞭打って、わざわざ群馬から、中川氏の告別式に出席したのは「贖罪」の意識があったのではないかと思えるのです。