書籍化されました
《同時に始まったサムスン、LGらの日本のハイテク技術の「パクリ攻勢」》
この頃から、当時の日本の先端ハイテク企業、例えば、SONY,日立、東芝などの技術者をサムスンが「妓生接待付きで技術のパクリ」を熱心に始めました。
スカウトマンは、勿論サムスン電子の日本支社のヘッドハンターたち。
各社で、優秀と評価の高い技術者を口説き落として、「高額ギャラ」で週末での「韓国アルバイト」を勧めました。
金曜の終業後に、羽田発の大韓航空便のソウル行き。
何故か、見るからに日本のハイテク企業の技術者らしい集団がロビーに集まります。
羽田~ソウル、たったの2時間30分です。
仁川空港には、それとなくサムスンの接待部長が待機。
送迎バスで、秘密の「妓生接待所」に連れて行った後は、飲んで歌ってどんちゃん騒ぎ。
一夜をあてがわれた妓生と過ごしたら、土曜一日は、サムスンの研究所で「技術指導」です。
そして、日曜の午後の便で帰国。
こうして、日本の半導体技術はサムスンに労せずして持っていかれました。
サムスンへの「技術移転(爆)」に最も貢献したのが、現在、斜陽のSONYの技術者だそうです。
《全斗煥、韓国大統領としての初めての訪日と昭和天皇との歓談》
対日姿勢
全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の領土[19]となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道された。
1981年8月15日の光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張している。
また、翌年の光復節記念式典においても、歴史教科書問題により、日本人に対するタクシーの乗車拒否が起こるなど、反日感情が渦巻いていた韓国において、前述の通り強硬的な姿勢を見せながらも、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と述べ、「克日」を強調した。
その一方で1982年には日韓基本条約締結時に棚上げを約束していた竹島を「独島海鳥類繁殖地」として韓国の天然記念物に指定した[20]。
訪日
1984年9月に全が国賓として初訪日した際、昭和天皇は同年9月6日、宮中晩餐会の席上「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」と述べた[21]。韓国の外交文書によると、韓国政府が日本側に対し昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていた[21]。また、拳骨拓史によれば、全は宮中晩餐会の前日に安倍晋太郎外務大臣と会談し、「弱い立場だと豊かな人、強い人に対してひねくれを感じ、相手が寛大にしても誤解をもつこともある。だから強かったり、豊かな人が少しくらい損をしても寛大な気持を持つべき。」「韓日の過去の誤解は大部分そういうものだった」と述べたという[22]。
拳骨は、韓国はこれ以降、大統領が交代するごとに日本に対して謝罪要求を行うようになったと述べている[22]。
★昭和大帝に「遺憾砲」を発射させたのですね。
また、別の機会に述べますが、戦前、大日本帝国時代の「朝鮮半島統治」について、今、現に生きている我々日本人としては「謝罪」は全く不要だと思っています。
★「韓国はこれ以降、大統領が交代するごとに日本に対して謝罪要求を行うようになった」・・・・まったく、悪い習慣を付けさせてしまったものですね(怒)
《「日本人の対韓国歴史認識」に強い「言論統制」を敷いた中曽根》
藤尾正行文部大臣罷免事件
藤尾正行とは・・・・・Wikiより
http://archive.is/MCgFV
日本の政治家。勲章は勲一等旭日大綬章。位は正三位。
衆議院議員(11期)、文部大臣(第109代)、労働大臣(第43代)、自由民主党政務調査会長(第31代)を歴任した。
文部大臣罷免
1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命されるが、入閣直後に歴史教科書問題に関連して「戦争で人を殺しても殺人(罪)には当てはまらない」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の対談中の発言が月刊誌『文藝春秋』(1986年10月号)に掲載され、野党をはじめとする左派から「放言大臣」と非難された。大韓民国や中華人民共和国の反発を憂慮した中曽根首相は、藤尾の自発的な閣僚辞任を求めるが、藤尾が「発言を問題にするのであれば罷免すればよい」と主張して辞任を拒否したため、中曽根は罷免権を発動し、藤尾文部大臣を罷免した。
2006年に亡くなられました。
「親台湾派」で「強面」でしたが、「筋」の通った政治家だと思っていました。
問題となった、月刊の文芸春秋が発売されるや否や「速攻」で罷免されたので、33年前の私は、藤尾大臣が首になってから、雑誌を読みましたが、当時としては「過激な表現」ではありますが、「嘘」は言っていないと思いました。
後で知ったのは、中曽根はゲラ刷りの段階で、記事を入手して、問題個所を顔面蒼白になりながら、当時の赤鉛筆で線を引いていたそうです。
★問題の箇所は
「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」・・・・・・・・・・
「韓国併合は合意の上に形成されたもので、当時の国際社会でも認知されたものだった」がより正確だと思います。