書籍化されました。
《無限拡散:私が小池百合子を「エジプトの工作員」だと気づいた理由》
今回の「学歴詐称問題の告発者」の女性に小池を繋いだのが「カイロ駐在の商社マン」だったこと。
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《1945年の「終戦」の時、20代だった大日本帝国陸軍の「情報将校」達の多くの就職先が総合商社だった》
私の叔父、父の兄は、1922年(大正11年)生まれで、1945年の終戦時は23歳でした。
文京区にあった帝国大学在学中に、召集を受けて戦時中は海軍にいました。
海軍と言っても、いきなり「学徒動員」ではなく、「海軍経理学校」と言うところに配属されました。
海軍経理学校
大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つである。
1938年(昭和13年)には、軍備拡張による主計科士官の需要増大に対応するため二年現役士官(短期現役士官、短現)制度が主計科にも拡大され、経理学校で二年現役士官を対象とした補修学生教育が開始された。
元々の軍人ではなく、短期現役士官として帝国大学と早慶の学生を対象に選抜されました。
短期現役士官
大日本帝国海軍が旧制大学卒業者等を対象に特例で現役期間を2年間に限って採用した士官のことで、より正式には二年現役士官(2ねんげんえきしかん)と呼ばれる。
評価
二年現役士官の制度については、日本海軍の人事制度で最大の成功として高く評価する見解がある。特に主計科士官について、成果として、海軍外の知識が流入することによって新しいマネジメントがより円滑に行われたことが指摘される。当初期待された単なる事務方としての役割を超えて、優秀な海軍士官として活躍したとする評もある
日本海軍が二年現役士官を創設し、高等教育を受けたエリートに「ふさわしい以上の処遇をした」ことは、彼らの日本海軍に対する好感度を高め、そのために戦後になっても二年現役主計科士官経験者を中心とした政財官界の要人らが海軍を高評価しているとの見方もある。
当時の大学生を「2年間」で将校に「促成栽培」する教育課程
要するに、当時の大学生を「2年間」で将校に「促成栽培」する教育課程で、戦後の世界で言えば、アメリカのMBA(経営学修士号)、ビジネススクールの様なものです。
12期まで「募集」したようで、個々の卒業生には、有名どころでは、昨年死亡した中曽根康弘や、「ルーピー」こと鳩山由紀夫の実父の鳩山威一郎(外務大臣)などがいます。
しかし、大東亜戦争の「戦局悪化」につれ、同期生の運命は分かれたそうです。
教官将校から「お前たち、次の任地は「内地」と「外地」のどちらが良いか申告せよ」と言われて、叔父は「外地」と申告したら、そのまま、引き続き学校の有った中央区築地の勤務となり、「内地」と申告した同僚は、太平洋戦線の基地に配属され、終戦後生きて復員した人は少なかったそうです。
叔父は終戦後、大学に復学して、卒業後は役人になりましたが、惜しくも51歳で病死しました。
形見分けで、海軍経理学校の同窓会名簿の「士交会(しこうかい)」を貰いましたが、同期生には、霞が関で後に事務次官になった人が綺羅星のようにいて驚きました。
生前の叔父と話したとき、「終戦で職業軍人の人たちは失業して大変だったでしょうね」と聞くと、叔父と同い年ぐらいの人で、陸軍の参謀本部の「情報将校」や、同じく、「工作員養成学校」の陸軍中野学校を出た人の多くは、総合商社、例えば、三菱商事や、三井物産などに、請われて再就職した人が多かったそうです。
《戦後日本の「奇跡の復興」と「高度経済成長」に貢献した陸軍出身の商社マン達》
1980年代に、母校慶応大学出身で、当時NHKの有名キャスターだった木村太郎の講演会を聴きに行ったことがあります。
木村太郎
1938年2月12日 – )は、日本のフリージャーナリスト、ニュースキャスター。
元NHK記者、キャスターで、退局後はフジテレビと専属契約を結び、キャスターを務めた。現在はフリー。
1964年NHKに入局後、報道記者として活動。パリ支局中東・アフリカ担当(ベイルート駐在、1974 – 1976)、ジュネーヴ支局特派員(1976 – 1978)、東京本部外信部記者(1978 – 1980)、アメリカ総局(ワシントン支局)特派員(1980 – 1982)と主に海外支局特派員を経験する。
1982年からは同局の総合テレビでの看板ニュース「ニュースセンター9時」のメインキャスターを務め人気を博した。
ベイルート空爆を知っていた商社マン
もう30年近く前の講演会で、内容は仔細には記憶していませんが、話しの中心は彼が中東のレバノンに赴任していたころの話でした。
今でも、鮮明に記憶に残っているのは、ベイルート駐在時の「中東戦争の実体験」の話でした。
彼と家族がベイルートにいた時に、中東戦争とレバノン内戦が勃発し、現地の日本人コミュニティはパニックに陥りました。
TVやラジオで刻々と、イスラエル軍と周辺のアラブ諸国の戦闘状況のニュースが入ってくる。
その時、現地日本人社会のある男性が
「皆さん、明日、シリア軍の侵攻か空爆があるそうですから、隣の町に急遽避難しましょう」と声をかけ皆、車で避難したそうです。
すると、果せるかな、翌日、シリア軍の侵攻があって、ベイルートは壊滅状態になったそうです。
木村太郎によると、この時、いち早くシリア軍の侵攻を察知して、緊急退避を呼びかけた在留邦人の男性は、旧日本陸軍情報将校出身の商社マンだったそうです。
在留邦人が一斉退避した町では、その商社マンが、日本人全員を集めて、市内で銃撃戦が始まったときの防御法まで指導したそうです。
空中を飛び交う銃弾をよけるために、地面にうつぶせになるのは当たり前ですが、その時、頭はそのまま伏せるのではなく、必ず左右どちらかに曲げろと言われたそうです。
講演では木村太郎は「皆さん、ご自宅に帰って実際おやりになるとわかりますよ。口を真下につけて、うつぶせするよりは、左右どちらかを向いてうつぶせになったほうが、頭の高さが違うので、弾丸が低空で飛び交うときに、頭に当たる確率を低くできますよ」と言っていました。
《小池百合子がカイロにいた時期、日本の商社マンの現地幹部は旧日本軍出身者が多かったと思われる》
石井妙子さんの「女帝 小池百合子」では、かつてのルームメイトの早川さん(仮名)に「この子とシェハウスしたら、家賃負担が軽くなるよ」と小池を引き合わせたのは、旧知のカイロ在住の商社マンとなっていますが、指示したのは彼の上司ではないかと私は見ています。
例えば、当時50代の、三井物産カイロ支店長とか・・・・・・
小池百合子と同居した女性は、知識豊かなインテリで、異国にいても、日本人の美徳を失わない芯の強い女性だということですが、ある意味「人を疑うことを知らない性善説」に立つ良い人の様に見えます。
「女帝 小池百合子」で、彼を知る多くの証言者が語るように、小池の父の勇治郎は、「根拠なき誇大妄想家で、嘘とはったりだけ」の周囲を混乱させるはた迷惑な人物でした。
ある意味「公害の様な人間」、2013年に死亡していますが、生前の勇二郎をよく言う人は、地元の関西、死亡直前までいた「カイロ日本人社会」でも一人もいないようです。