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無限拡散|アントニオ猪木と力道山
《野田氏が秘書をしていた猪木と「北朝鮮との縁」は師匠の力道山から始まる》
戦後、テレビ時代の始まりとともに「日本プロレスの生みの親」となったプロレススターの力道山については多くの説明はいらないでしょう。
私が物心ついた時には既に亡くなっていましたが、往時の試合はネット時代の恩恵でyou tubeで見ることができます。
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力道山が戦前の朝鮮半島出身であったことは、平成になってから知りました。
本人が「出自」については隠していたからです。
同様の人物に極真空手創始者の大山倍達もいます。
大山は帰化して、力道山は長崎の百田と言う農家の養子に入っていたそうです。
主人公は2002年に亡くなった町井久之(鄭建永〈チョン・ゴニョン〉と言う「在日のヤクザ」ですが、
彼の前半生に同胞の兄弟分として力道山が登場します。
力道山については
生い立ち
日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれた。
本名は金信洛(キムシンラク)で三人兄弟の末っ子。
長兄は朝鮮相撲会の強豪の金恒洛(キムハンラク)。
15歳の時の1940年、朝鮮日報社主催の全国少年相撲大会で優勝し、朝鮮日報社の推薦で渡日し、日本の角界に入門しました。
日本の相撲界に入った力道山は、2年後の1942年の「大陸巡業」で故郷の朝鮮半島で、「いいなづけ」だった女性と再会して、その時授かった子供が金英淑という女性だったそうです。
1961年に、新潟港に停泊した北朝鮮の旅客船の船内で次兄の金公洛と実の娘の金英淑(当時19歳)と対面を果たしました。
北朝鮮の独裁者の金日成の特別の計らいだったそうです。
それ以降、日本で大成功し「名誉」と「冨」を得た力道山に対して「北朝鮮シンパ」となるように、金日成の「攻勢」が続きます。
実兄からの手紙が船便で頻繁に届くようになります。
すっかり朝鮮語を忘れてしまった力道山に、手紙の内容を日本語に翻訳して読み聞かせたのが、
弟子で「原爆頭突き」で一世を風靡した大木金太郎(本名;金一)でした。
感動した力道山は、翌年の1962年の金日成の誕生日に、高級外車のベンツをプレゼントしたそうです。
《力道山謀殺説》
力道山は1963年に、赤坂のクラブで暴力団員と喧嘩になり刺された傷が原因で死亡したとなっていますが「異説」があります。
力道山は刺された翌日に病院に行き、手術は成功していたそうです。
しかし7日目に腹膜炎による腸閉塞を興しましたが、この時も手術には成功しました。
しかし、6時間後容体が急変して死亡しました。
《北朝鮮に気持ちが傾き出した力道山を「医療事故」を装って謀殺したのではないか?》
町井久之は、右翼の大物の児玉誉士夫と組んで「反共主義」で韓国を支援していました。
2年前の1961年には、韓国では朴正煕が軍事クーデターにより実権を握り、長年の懸案だった「日韓基本条約」の交渉も「用日派」の朴によって順調に進みつつありました。
その時に、日本と祖国朝鮮共に「英雄」だった力道山が、北朝鮮を支持し始めたら「在日社会」に動揺が走るでしょう。
町井は力道山死後は、日本の自民党の「右派」と朴正煕政権を結ぶフィクサーとして、「日韓裏面史」で活躍しました。その意味から、長く言い伝えられている「異説」です。
《力道山の「遺産」を朝鮮半島での「プロレス興行」にフル活用した猪木》
力道山の弟子の猪木に対する「しごき」は常軌を逸した面もあり、愛憎半ばする師弟関係でした。
しかし、有名レスラーとなった猪木は「力道山の直弟子」であることをアピールして、韓国でのプロレス興行を成功させます。
当時の韓国の大統領の朴正煕は「大のプロレス好き」でした。
従って、ソウルの奨忠(チャンチュン)体育館での韓国の英雄の大木金太郎とアントニオ猪木の一戦は、大統領も観戦するビッグイベントとなりました。
結果は「お約束どうり」両者リングアウトによる引き分けとなりましたが、熱戦に感動した朴正煕大統領が大木金太郎に「何かほしいものがあったら言え」と言われて、「故郷の島に電気を引いてください」と頼んで実現したそうです。
朴正煕が大統領の頃に側近の軍人で、朴暗殺後に大統領となった全斗煥は「大統領、プロレスなんてあんな八百長どこがおもしろいんですか?」と聞いて随分と叱られたそうです。
その代わり、全斗煥は「大のボクシング好き」で、自分が大統領になってからは、韓国のプロボクシング選手の育成に力を入れて、ボクシングの「日韓戦」を楽しみにしました。
全斗煥時代は、日韓のフィクサーとなったのは、同じく在日やくざの大物の柳川次郎(1991年没)で日本ボクシング連盟の会長を務めました。
韓国が「民主政権」となり、盟友の大木金太郎が1995年に引退しました。
この年を契機に、猪木の「北朝鮮興行」が始まったのです。
「日本のプロレスの父」だった力道山が半島出身であったこともあり、昭和でピークを終えた日本のプロレスラーには在日が多かったです。
長州力(郭光雄)、前田日明、星野勘太郎(呂 建夫)など枚挙にいとまが有りません。
業界人に「半島出身者」が多いことから、猪木の心中も「日本の北朝鮮に対する過去清算」の方が「拉致問題」よりウェイトが大きいのかもしれません。