美智子・小和田の背後にいる創価とオウム真理教の密接な関係、無限拡散
平成になり、明仁が天皇になるとのっけから不気味な事件が連発した。
平成元年3月29日、有名な「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の被害者の遺体が発見され事件が明るみに出た。そして、同年11月4日、「坂本堤弁護士一家失踪事件」が起きる。・・・当時は失踪事件だった。
現場に、オウム幹部の徽章「プルシャ」が落ちていたが、さすが神奈川県警、事件性なしとした。
そして1995年3月20日「地下鉄サリン事件」が起きる。この事件について、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏が目からうろこの真相を著書「日本を貶めた戦後重大事件の裏側」KKベストセラーズで述べている。
あの事件の最終的な目的は、そのまま、皇居に突入し、日本の皇帝になる事だったという。
その根拠は、菅沼氏が中国の南京を訪れ、明朝の初代、朱元璋の墓を訪れた時のことだ。中国人の女性ガイドが「麻原彰晃さんも、お墓参りに来ていましたよ。「私も必ずあなたと同じ身分になります」と祈願していました。」麻原と朱元璋の幼少時代は似ていた。疫病で両親を失った朱は、托鉢僧をして命をつなぎヤクザを集めて元朝を滅ぼし、明の皇帝となった。
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ここからは、私の得た情報からの推理だが、結局、「皇居突入作戦」まで行かなかった。何故か、本来の作戦の「来るべき援軍」が来なかったからだ。それは、創価学会だ。
★創価は、サリン事件の効果の小ささに幻滅して、「鉄砲玉」のオウムを見捨てたのだ。それで、「皇居突入作戦」は実行に移されなかった。
★もう22年前の事件で、サリンで亡くなり、後遺症に苦しむ被害者の片には気の毒だが、この時「皇居突入作戦」が成功して、麻原に、明仁と美智子が処刑されていたら、警察による鎮圧は時間の問題なので現在の「皇統断絶の危機」「創価中韓乗っ取り」は起きなかったかもしれない。
「坂本堤弁護士一家失踪事件」は、オウムNo2の岡崎久明(死刑確定)の自首により、1995年4月10日、一家の死体が発見され、「殺人事件」と変わった。
6年の歳月が過ぎ、遺体は、白骨化、死蝋化して、実際の殺害日と死因は確定できなかった。
≪残った疑惑≫
• 事件直前、坂本弁護士の自宅に対し「坂本さーん」と呼ぶ女性の声があったことや、その後で浴室からの水音を階下の住民(当時)が聞いているのに、事件が起きたとされる時間帯には全く物音がしていなかった事を、たまたまその時間に起きていた階下の住民は証言している。
• 事件が起きた時には、坂本弁護士の自宅は施錠されていなかったことから、当時の緊迫した状況からは考えにくいとして、「侵入したオウム信者とは別に、教団外の協力者がいたのではないか?」との疑いを持つ者もいる[20]。
• 坂本弁護士の自宅から茶碗が3つ消えている。
• 「事件に関与した」とタクシー運転手を自称する者が、1994年(平成6年)頃に月刊誌『マルコポーロ』の編集部に現われた(証言の真偽は不明なまま)。
• これはオウムが主張する謀略説の根拠となった[10]。
• 前述の通り、遺体がいずれも白骨化ないし死蝋化していたため、正確な死亡原因及び死亡日時の特定はほぼ不可能な状態となっていた。
• このため、オウムの弁護側からは一家の遺体であることの根拠に乏しいとの指摘も出たという(参照)。
≪坂本弁護士一家が非命に倒れたのはTBSの犯罪幇助があった≫
TBSと言えば、民放キー局の中でも、安倍総理叩き、「生前退位特例法案」「眞子様騒動」でも、親会社の毎日新聞同様、「飛ばし報道」「飛ばし記事」が露骨だった。毎日新聞と言えば、1972年沖縄返還に関わる「日米外交文書」を盗み出した有名な「西山事件」で一度倒産、その後も発行部数の減少と業績悪化は回復できず
★創価学会の機関紙の「聖教新聞」の印刷を受託して、辛うじて倒産を免れている(笑)そして懲りないのか、平成になってまた「殺人幇助」を犯したのである。
「TBSビデオ事件」
TBSビデオ問題(TBSビデオもんだい)は、1989年(平成元年)10月26日に、TBSのワイドショー番組『3時にあいましょう』のスタッフが、弁護士の坂本堤がオウム真理教を批判するインタビュー映像を放送前にオウム真理教幹部に見せたことで、9日後の11月4日に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件の発端となったとされる事件であり、TBSが引き起こしたマスコミ不祥事・報道被害である。
オウム真理教の幹部、早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸らが26日の深夜、TBS(当時の千代田分室)を訪れ、インタビューが収録されているビデオを見せることを執拗に要求。
番組総合プロデューサーの多良寛則が、部下にインタビューを収録した当該ビデオを3人に見せるよう指示し、3人はビデオを視聴。早川はこのときのことをメモにとっている。
結局、オウム側の抗議にTBS側スタッフはインタビュー(企画していたオウム特集自体)を放送しないことを承諾・約束し、オウム側幹部はその場を後にする。
31日に早川、上祐、青山ら3人は、坂本が所属する横浜法律事務所を訪れたが、坂本からは教団を告訴する旨を告げられ交渉は決裂。
4日後の11月4日、坂本堤弁護士一家殺害事件(当時は「失踪事件」)が発生する。