美智子皇后|正田家再家系調査⑤
部落民であることをひたすら隠そうとする正田家の家系図、転載フリー
*写真は部落民の正田美智子と、並んで写真に写るのを「必死に我慢するエリザベス女王」
部落民であることをひたすら隠そうとする正田家の家系図、転載フリー
※正田邸
• 下記に、女帝の実家、正田家、の世に言う、「家系図」とやらをあげます。
★家系図とすら言えない代物で、【噴飯もの】です。
【嘘だらけ】でこれくらい、虚偽、捏造の激しいものはありません(怒)
見えてくるのは、ひたすら、【部落民であることを隠そうとする意図】です。しかも、その、企画がぼろぼろ足を出しているのが、何とも滑稽で哀れです。
• 『正田貞一郎小伝』9-21頁によると、
「徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。
後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、寛政の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。
正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。引化の頃(1844年-1847年)には名主の職にあり、 名字帯刀を許されていた。
文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め、醤油醸造業を始めた。」という。
• 神一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、
「そもそも正田家のルーツは群馬県館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三は、正田家を三百年前までさかのぼって調べたという。郷土史家によれば“正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人までいきあたる”というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。
この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は“米文”の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。
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≪私の分析≫
① >群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば
長楽寺と言う寺の和尚の口伝、信憑性のある古文書が有るわけではない。
② >正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人
新田家は、太平記で有名な武将の新田義貞で、有名だが、結局、足利尊氏に破れて滅びた大名。滅びた大名を祖先とするのは検証しようがない。
捏造家系図の典型的パターンで、【死人に口なしの法則】と、私は呼んでいる
③ >天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。
(素朴な疑問)天正年間の何年?天正年間は20年近く続くんだけど(笑)
どこで、家康に会ったの?知行(ちぎょう)を受けたら、普通石高(100石とか)を書くでしょう。
これは、正田美智子の祖父の貞一郎の自伝です。
著者が、独自調査したものか、口述筆記したものかありませんが、【先祖を無理やり生田義豊に結び付けただけです】先祖代々、そう嘘を突き続けたために、いい加減な覚え方をしたのでしょう。
★結論から言うと、正田家と生田隼人、義豊とは無関係となります。「正田姓」は勝手に名乗ったものでしょう。
④>後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まり・・・
★【部落から部落への異動】です。
世良田、現在の、群馬県太田市世良田は【古来から伝統ある(笑)部落地区】です。近代になって、部落民に絡んだ大きな事件が有りました。
【世良田村事件】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世良田村事件(せらだむらじけん)とは、1925年に群馬県新田郡世良田村(現・太田市)で起きた騒擾(そうじょう)事件。
概要
1924年12月、世良田村の一村民が「俺はボロを着ていてもチョウリンボウ(被差別部落民の賤称)ではない」などと発言したことに端を発する。この発言を村内の被差別部落の水平社メンバーから糾弾された村民は自らの非を詫び、謝罪講演会を開くと約束したが、村の有力者たちの反対を受けて講演は中止となる。
水平社の糺弾に対する反撥から、1925年1月18日の晩に12の字(あざ)から約2000人の農民が手槍や日本刀やピストルや棍棒を持って集結し、翌朝にかけて23戸120人の被差別部落を襲撃、これにより36名の負傷者が出た。
★移った先の館林が、現在【群馬県館林市目車町】です。
例の、部落民労働産業の【正田醤油】が有るところです。「何で、部落から部落に移ったかって?」
★【部落以外の村】が、部落民の正田一族の、侵入を拒否したからでしょう。
それにしても、【群馬県は部落地区の多い県】です。
★部落民、初の総理、「雅子を将来の皇太子妃に」が口癖だった、福田赳夫の実家、高崎市金古町は、町全体が部落地区です。
★【部落は部落を求める】・・・小和田雅子と婚約寸前までいったのは、福田の甥の越智隆雄自民党議員でした。ちなみにセレブ婚した、元フジアナの千野志麻の夫、横手信一は、福田赳夫の孫なので部落民です。
女帝美智子が、小和田雅子を気に入ったのも【同じ血の匂い】を直観的に感じたからでしょう。
④ >名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。・・・【館林の部落地区に住み、苗字帯刀を許されていた】
★ズバリ、【首切り役人】でしょう。名主は嘘でしょう(笑)
★部落出身を公表するルポライターの「上原善広(大宅壮一賞受賞者)」は著書「韓国の路地(部落地区)を歩く」の中で、日本でも【首切り役人は被差別民が多かった】と述べています。苗字を許された部落民もいます。
【弾左衛門】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代のであった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。幕府から関八州の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。
⑤ >郷土史家によれば“正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人までいきあたる”入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)から
★結論から言うと、家計調査に300年遡ったと言いますが、生田隼人までは、遡れなかったという事です。
【郷土史家】と言うのは歴史学者ではなく、趣味で地元紙史を調査している人で信憑性は低いです。この人こそ、部落民の可能性が高いです。
★遡れる最後が、庄田某ですからね。生田隼人とは無関係です。
⑥>江戸時代は“米文”の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。
★江戸まではわかるけど、「大阪堂島のコメ相場を動かす」は眉唾物です。
当時日本は世界で初めて【コメの先物取引】=デリバティブをやっていました。その主要メンバーなら、歴史書や古文書に名前が残っているはず、見せてもらいたいです。
⑦>大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。
★大繁盛しているのに、何故やめたの?【醤油醸造という部落民労働力集約産業】に先祖返りしたのか?
★【矛盾点や謎の多い正田一族の歴史】でした。
最後に読者様の情報提供です。
(すだちさん)
三島由紀夫とのお見合いの顛末。
「つまらない女だった」と三島からお断りしたという話が伝えられています。
あと三島の祖母が美智子さんのご実家の家柄をお気に召さなかったという話も。
どちらもあり得るなと思います。
★三島の祖母は、華族です。見るものが見れば、【矛盾だらけで嘘くさい家系図】です。正田美智子を断った、三島と、その祖母の慧眼(けいがん)に敬服です。
以上
※⑥へ続きます。