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ゴ・ジン・ジェム政権誕生
≪ジュネーブ協定≫wikiより
ジュネーブ協定と南北分断
フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、1954年4月26日にはスイスのジュネーヴに関係国の代表が集まり、和平交渉としてインドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。
会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が成立した。
これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。
北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。
ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、
ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた。
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≪南ベトナムに、ゴ・ジン・ジェム政権誕生≫
1954年7月、南ベトナムに、反共主義者で、熱心なカトリック教徒であるゴ・ジン・ジェムが大統領に成り、政権を握りました。
ゴの擁立には、アメリカの周到な根回し(CIAの工作員、エドワードランズデールの尽力)が有り、これを持って「アメリカの傀儡政権」であることは明らかです。
当時、アメリカの権威ある政治学者の、ジョージ・ケナンによる「ドミノ理論」の影響で、これ以上の東南アジアの赤化を防ぐための防波堤として、南ベトナムが位置づけられたのです。
≪ドミノ理論とは≫wikiより
ドミノ理論(ドミノりろん、英語: Domino theory)とは、「ある一国が共産主義化すれば動きはドミノのように隣接国に及ぶ」という、冷戦時代のアメリカ合衆国における外交政策上の理論である。実際に起こった現象についてはドミノ現象と呼ぶ。
ゴの常軌を逸した宗教政策と独裁、実弟のゴ・ディン・ヌーの秘密警察を握った恐怖政治は、南ベトナム国民の人心を離れさせ、アメリカの、「ベトナム政策」にも打撃を与えます。
≪ベトコン(南ベトナム解放戦線)の誕生≫
1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線が結成された。
翌年2月に解放戦線はハノイ放送を通じて宣言と綱領を発表、「1954年のジュネーブ協定でベトナムの主権が承認されたにも関わらず、米国がフランスにとってかわり、南部にジエム政権をつくり、形をかえた植民地支配をすすめている」と主張した。
南ベトナム解放民族戦線は、「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対するゲリラ活動・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。
構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。
しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化し前ホーチミン・ルートを経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。わずか2年の間で4000名規模にまで拡大した。
NLFは、当初は、ジェム一族の政権私物化と腐敗、その後ろ盾であったアメリカに対する抗議・抵抗運動が起点であった。
若い学生がNLFの中核として、ベトナム統一戦争に参加した。
以上
次号へ続きます。