ベトナム戦争と慰安婦像|何故、関係のないアメリカに慰安婦像が立つのか?
書籍化されました
前号までは、「ベトナム戦争史」のシリーズを連載しました。
1975年4月、43年前に、アメリカの敗北で完全終了した戦争であることは既に述べました。
第二次大戦後の「国際政治史」大きな影響を与えた戦争でした。
★同時にアメリカ帝国という「巨大な太陽」が、日没に向かい、西に傾いていく「分水嶺」となりました。
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日米経済戦争の勃発とアメリカの敗北
ベトナム戦争が最高潮を迎えていた1968年(昭和63年)同盟国である日米間に「深刻な貿易紛争」が起きていました。
それが、所謂「日米繊維紛争」であり、政府間の交渉が、「日米繊維交渉」でした。
発端は、自由貿易主義国であるアメリカが、日本にも分け隔てなく「市場」を開放してくれたため、当時「ワンダラー・ブラウス」と言われた、安価な日本の綿製品の輸入が、激増し、アメリカ国内の繊維会社の経営に打撃を与えたことです。
1米ドルで買えるブラウスとは、当時固定レートの360円で買えるということです。
1968年に大統領に就任したニクソンは、選挙地盤の南部諸州に繊維業界が集中していたため、「毛織物、化学繊維」にも「輸入割当」=事実上の輸入制限を日本に要求してきました。
★これで、いつものように「圧力を加えるアメリカ」と「必死の抵抗をする日本政府」という、同様のパターンを繰り返す「貿易摩擦」が激化したのです。
この交渉は結局3年もかかり、1971年にやっと、翌年、総理大臣になる田中角栄の「剛腕」によって「日本側の輸出自主規制と、大手繊維企業への補助金という慰謝料」で決着しました。
当時未だ小学生でしたが、NHKのニュースを見ると、アナウンサーが「日米繊維交渉が~」というのを聞いて、ベトナム戦争と同じく「まだやってるのか~、いったいいつになったら決着するんだ?」とうんざりしていました。
ベトナム戦争も同じで米軍と、ベトコン(南ベトナム解放戦線)が「クリスマス休戦協定」なってやっていました。
「戦争をやるのなら、クリスマスも休まずに、まじめにやれ(怒)」と思ったものです。
日米繊維交渉での日本側の妥協と「沖縄返還」はセットだった
★これは、日米トップ間の密約で、知っていたのは、佐藤栄作総理大臣と、ニクソンの二人のみ。
当時から「糸(繊維製品)と縄(沖縄)を交換した」という、「噂」が飛び交っていました。
2012年、外務省の公開文書で、やはり、「沖縄返還密約」があったことがわかりました。
アメリカは外交交渉では、必ず「見返り」を求める国
アメリカは、旧ソ連やロシアと違って「話の分かる国」ですが、相手国に利益を与えるときは、必ず「見返りを求める国」です。
★「相互主義」とでも言うのでしょうか?これは、「対米交渉」をするときの「キモ」でもあります。
日米経済(貿易)戦争については、今後、機会を改めて、連載記事にしたいと思います。
何故、関係ないアメリカに慰安婦像が建てられたのか?
2013年7月30日、アメリカ、カリフォルニア州、ロサンゼルス郡グレンデール市に、突如、慰安婦像が出現し、日本人を驚愕させました。
★2011年12月に、ソウルの日本大使館前に、この像が出現した時は、相手が韓国だから、「さもありなん」という感じで頭には来ましたが、意外性は有りませんでした。
しかし、グレンデールの時は度肝を抜かれました。
冷静に考えると、グレンデールに始まり、デトロイト、ジョージア、サンフランシスコと拡散した慰安婦像ですが、、
★その根源ときっかけは、ベトナム戦争に有ります。