書籍化しました
このシリーズでは、ベトナム戦争やケネディ家などのアメリカ要人の暗殺史を通して衰亡へ向かっていくアメリカ帝国を、そして、ロシア帝国のロマノフ家の滅亡を取り上げてきました。
帝国や国が衰亡したり滅亡したりする前兆として、
①被差別民だった立場にある家族や人間が国のトップになり、意識的に、あるいは無意識に、代々蓄積されてきた社会への憎悪と破壊願望にそって国政をおこなうこと、
②国の運に影響を与える国家元首にあたる王家が、貴賤婚を繰り返し、家の運を弱めた結果、国の運も弱まったこと、
➂公人であるはずの王族が、結婚など国に影響のある事象について、私的な都合や好みや生活スタイルを優先させ続けたり、結婚後も、政治よりも家庭の団欒を優先し、公人としての自覚や義務を放棄て一般化した結果、天運に見放されてしまうこと、
➃とにかく、運の悪い命運をもつ人間がトップになること、
などがあります。帝国が解体したり、衰亡する場合は、全部かあるいは複数の条件を備えることが多そうです。
実は、大英帝国も似た条件を備えていました。しかし、大英帝国は解体しましたが、英国と英国王室は残りました。それには、最後の大英帝国皇帝のジョージ6世の功績によるものが大きいと思っています。
最後は、大英帝国の解体に触れたいと思います。
大英帝国の臨終を看取った王・ジョージ6世
国家への献身と責任感及び自己犠牲の名君
「ちゃらい美男子」だった「王冠を捨てた」エドワード8世の弟君です。
今の女王の父上であり、1688年エリザベス1世が、スペインの無敵艦隊「アルマダ」を破って以来始まった「大英帝国」が崩壊するのを「看取った」イギリス王です。
私は大英帝国の崩壊は、実質的には、1942年2月25日の「シンガポール陥落」だと思っています。名将の山下奉文(ともゆき)大将率いる3万6千人の日本軍が、パーシバル将軍が8万5千人で立て籠もる「難攻不落」と呼ばれたシンガポール要塞を16日間で降伏させました。
既に香港は陥落し、マレー沖海戦で、イギリス最強の「東洋艦隊」は全て撃沈され、そして、「東洋のジブラルタル」と呼ばれエジプトのスエズ運河同様、大英帝国にとっては絶対に敵に奪われてはいけない「軍事的要衝」でした。
★これによって、大英帝国は、西太平洋の制海権を失い、インド洋の制海権も同時に失いました。インドでは独立運動に拍車がかかります。
その後、大英帝国は、アジアに大艦隊を派遣することはできなくなりました。
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日英関係近代史
大戦後解体させられたのは大日本帝国と大英帝国
第二次世界大戦時、劣勢のまま「ポツダム宣言」を受諾し、「停戦」した、大日本帝国が解体したのは当然ですが、最終的な勝利者だった大英帝国も解体されました。
それは、「大東亜戦争」開戦初頭の、日本軍の「南方電撃作戦」で、イギリスの植民地は、
香港⇒マレー⇒シンガポール⇒ビルマ
と次々と、日本軍の手中に落ち「白人には決して勝てない」と刷り込まれた、現地人の目の前で、背の低い日本軍に追い回されて、ホウホウの体で逃げ惑う、背の高いイギリス兵を見た植民地の人達は、「イギリス人に対する恐怖感」が無くなりました。
日本軍の撤退後、4年ぶりに戻ってきたイギリス軍に対して、かつて、支配されてきた現地の人達は、「白眼視」するようになります。
1945年8月15日の「停戦」の2日後に、オランダの植民地だったインドネシアでは、スカルノが独立宣言をします。
インドでは、1945年9月、インパール作戦に日本軍とともに戦ったスバス・チャンドラボースが率いた「インド国民軍」の捕虜をイギリスが裁こうとしたときにインドでは大暴動が起こり、イギリスは、インドの統治を諦めました。
左から4人目:東条英機、右:チャンドラ・ボーズ
1947年、「英国王の王冠のダイヤ」と言われたインドが独立して、遂に「大英帝国」は崩壊し、地上から消え「英連邦」となります。
大東亜戦争は、大日本帝国が大英帝国と刺し違えることによって東南アジアの多くの国を独立させた戦争
これが、私の歴史解釈であり「史観」です。第一次大戦後解体された帝国は、
・ドイツ第二帝国、
・ロマノフ朝ロシア帝国、
・オスマントルコ帝国
・オーストリア=ハンガリー二重帝国
でした。ロシア以外は敗戦国です。
2次大戦後は、
・大日本帝国
・大英帝国
が解体させられました。
★アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトの思惑通りです。そしてその歴史的淵源は、親戚のセオドア・ルーズベルト大統領に遡ります。
1905年、日露戦争で陸海ともに、ロシア軍に圧勝を続けていた日本軍、但し、「戦費」はそこをついていました。
その、日本に有利な条件で講和条約の仲立ちをしてくれたのが、セオドア・ルーズベルト大統領でした。
しかし、戦後、日本軍の想像を絶する強さを警戒した、セオドアは、「ロシアの南下」の脅威がなくなった今、第一の仮想敵国を大日本帝国に定め将来の開戦に備え、「オレンジ作戦(対日戦計画)」を発動します。
★そして、最も目障りだったのが、日英同盟です。何故なら、日本と開戦すると自動的にイギリスも敵に回すからです。
それで、アメリカは日英同盟の破棄を狙います。
1914年に始まった第一次世界大戦では、イギリスは国力を消耗すると同時に、アメリカの参戦なくしては、勝利できず、アメリカに対して大きな負い目を負うことになりました。
そして、遂に1923年、アメリカの圧力により、日英同盟は破棄されました。イギリスはアメリカに屈すると同時に、日本の恨みを買うという損な立場に成りました。
大日本帝国と大英帝国をともに解体させることがアメリカの目的だった
中国市場、特に満洲に権益を得たいアメリカにとっては、大日本帝国は、目障りな存在であり、バルチック艦隊にワンサイドゲームで完勝した日本海軍は、太平洋を「自国の海」にしたいアメリカにとっては、非常に「危険な存在」でした。
また、アメリカにとって、大英帝国は、かつての宗主国ながら、世界中に植民地を持ち、いざ戦争となると、大西洋から攻撃を受ける厄介な存在でした。「太平洋での戦闘」で、日本海軍を壊滅させ、ポツダム宣言を受諾させることにより、大日本帝国を解体に追い込みました。
ただそれだけでは済みません。「停戦」の8月15日の、2日後の17日に独立宣言したインドネシアに対し、旧宗主国のオランダとイギリスが再植民地化を狙って軍隊を派遣します。インドネシア独立戦争です。しかし、アメリカはオランダとイギリスに圧力をかけ、戦争を辞めさせて、インドネシアを独立させました。
1948年に植民地だったビルマが独立、
1957年マラヤ連邦(マレーシア)独立、
1952年半保護国だったエジプトが独立、
1965年シンガポール独立。
イギリスのメンツを完膚なきまでに叩き潰した「スエズ動乱」
1956年エジプト大統領ナセルは「スエズ運河」の国有化を発表しました。それに対して、イギリス首相アンソニー・イーデンは、スエズ運河の「既得権保全」も為エジプトに軍事侵攻します。これに、フランスとイスラエルが参戦し、「第二次中東戦争」が勃発します。
エジプト軍も、健闘しますが、じりじりと押され、降伏目前か?と思われたその時、アイゼンハワー大統領と、ブルガーニン首相は手を組み、英仏イスラエルに即時全面撤退を通告します。
結局英仏はスエズ運河を失い、イギリス首相アンソニー・イーデンは敗戦の責任をとらされる形で辞職しました。
英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができました。
エジプトは国有化宣言を実行できた。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃しました。
しかし英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。
それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。
★スエズ運河を永久に失うことで、イギリスは、紅海、ペルシャ湾、インド洋の制海権を完全に失ったのみならず、地中海の制海権も失いました。
また、小国エジプトへの軍事干渉もアメリカの圧力で屈する形で、「メンツ」も失い「軍事大国」でもなくなりました。
このスエズ動乱が、「フル・ストップ」、イギリスが大国に返り咲く道すらも閉ざしてしまったのです。
次号へ続きます。