大日本帝国時代は順民だった朝鮮人
書籍化されました。
《「親日反民族行為処罰法」を厳格に適用すると現在の韓国国民の99%は間違いなく「全員有罪」となる(怒)》
私が「敬愛」する黄文雄先生(元台湾独立運動家、帰化済み)が著作で言っていましたが、
★「戦前の朝鮮半島は「順民」の地域だった」・・・・・・・
「順民(じゅんみん)」とは、「法の統治に従順な人々」の意味です。
黄文雄先生の「根拠」は、戦前の「台湾」と比較して、1平方キロ当たりの「巡査」の人数は朝鮮半島の方が少なかったそうです。
前の記事で書いた「三一独立運動」以外は、ほとんど反乱が無かったそうです。
しかも、日本統治時代に実際に半島の「治安維持」に当たっていた、警察の巡査や、刑事はほぼ全員、朝鮮人でした。
北朝鮮の「金王朝」初代、金日成の最側近の黄長ヨプが、著作の中で日本が降伏した1945年8月15日を回想して述べています。
P145
黄は「終戦の日」を江原道の小野田セメントの工場で迎えたと語っています。
―祖国解放の実感は?
黄「(前半省略」・・・・・・・・・・・・・・・・・
工場では皆から憎まれている刑事がいた。朝鮮人だったが工場で監督をしていた。「なぜ、徴用労働者に対して敵対的に監視したのか」と7,8人で取り囲んだ。
ところが、刑事は泰然としていて、「上官の命令に従っただけだ」と言った。「解放になって、ともに協力するならいいが、私に暴力をふるうなら黙っていない」と言う。
私達の武器はナイフだけだった。刑事はピストルを持っていた。誰かがトラックを借りてきてソウルまで行くことになった。そうしたら図々しいその刑事が乗り込んできた。みんなは「途中で殺してしまおう」と言う。・・・・(後半略)
同乗した朝鮮人刑事は途中で日本人の憲兵隊のジープに乗り換えたので、殺害しそこなったと語っています。
このように、大東亜戦争も終盤を迎えた朝鮮半島は、現地朝鮮派遣軍の精鋭も、半島で仕事をしていた民間人の日本人男児も「根こそぎ」太平洋戦線に招集されたので、半島に残されたのは最低限の日本人憲兵だけでした。
要するに、戦時中の半島の「治安維持」は朝鮮人の警察に「丸投げ」「お任せ」状態でした。
ただ、警察組織を早くから(三一独立運動が終息した後の朝鮮総督府の「文治政治以降」)朝鮮人に「丸投げ」したので、日本人が巡査をするより、朝鮮人住民に対して暴力的だった可能性はあります。
それに比べて、台湾の巡査は日本人だったようです。
有名な金美齢女史の回想によると、日本人の巡査はサーベルを下げて怖かったといっています。
台湾では「統治の行き違い」で大きな原住民の反乱が有りました。
霧社事件(むしゃじけん)とは・・・・WIKIより
1930年(昭和5年)10月27日に大日本帝国外地台湾・台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった、台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日蜂起事件。
背景
原住民側蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年(昭和5年)10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。
この巡査殴打事件について警察からの報復をおそれた原住民側、特にモーナ・ルダオが警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、蜂起を画策したと言われている[1]。
そして蜂起の背景として、日頃からの差別待遇や強制的な労働供出の強要(出役)について、原住民たちの間に不満が募っていたことがあったと言われている。
経緯
1930年(昭和5年)10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁[2]300人ほどが[3]、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。
当時の公学校には一般市民の日本人と台湾人(原住民以外の現地人。以下同)の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人132人と和装の台湾人2人余りが惨殺された。犠牲者は無残にも首を切り落とされる有様であった[4]。
★台湾映画「セデック・バレ」で公開された有名ですが悲しい事件でした。
日清戦争の勝利で、清国から割譲された「台湾」ですが、それ以前から、山地に住む原住民は勇猛で「首狩り族」として恐れられていました。
「愛台派」の私としても、この「反乱」はトリガー(引き金)となった日本人巡査の行為が悪かったと思います。
今現在でも、日本の体育会男子の「風習」として残っていますが、体罰の一環として、または「気合」を入れると称して、相手の頬をビンタではる行為が残っています。
同じ日本人同士なら、「悪習」でも「慣習」だと思って忍耐しますが、他民族は違います。
90歳過ぎて未だ健在のようですが、日本統治下の朝鮮半島で生まれ育ち、満州国軍の中尉で終戦を迎え、朝鮮戦争で活躍し、アメリカ軍からも一目置かれた白善ヨプ(ハクゼンヨプ)将軍がいます。
白善ヨプ・・・・WIKIより
白 善燁(日本語読み;はく・ぜんよう、朝鮮語読み;ペク・ソニョプ、1920年11月23日 – )は、韓国の軍人、外交官、政治家、実業家。弟は軍人、教育者の白仁燁。日韓併合解消後の韓国で同陸軍の創設に参加して、朝鮮戦争では常に第一線で戦った[1]。共同作戦を行うアメリカ軍からは「ホワイティ(Whity)」の愛称で呼ばれた。韓国陸軍初の大将に任じられ、退役後は各国で外交官を務めた。
白将軍の回想録で興味深いものがあります。
日本語が達者で「名将」だけあって文章も切れます。
著作の内容の主要な部分は、朝鮮戦争での実戦の記憶ですが、私が特に興味を持って読んだのは、前半の生い立ちから、「終戦」までの日本統治時代の追憶でした。
「日本統治時代」を冷静に偏らずに、公平に評価しています。
大日本帝国の長所も短所も。
その中で、今回の記事と関連があるのは、満州軍官学校(朴正煕元大統領の1期後輩)に入学した時の訓練のことです。
白将軍が最初に面食らったのは、先輩による「ビンタ」でした。
しかし、頭脳明晰な将軍は「これは「気合」を入れるためだな」とすぐ理解したそうです。
満州軍官学校には朝鮮人の男子も志願兵として(当時徴兵義務は無かった)多数入学していたそうですが、最初は皆驚き、泣く男子もいたそうです。
しかし、将軍が言うには「朝鮮人はすぐ「ビンタ」になれて、その後はお互いに喜々としてビンタするようになった」と書いています。
「但し、「ビンタ」は他のアジア民族に対してはやってはいけない、特に中国人にたいしてやったらメンツをつぶして、殺されることもある」といっています。
※次号へ続きます。