「マラリア」で死亡した歴史上の著名人③北白川宮能久親王のケース
台湾でマラリアに罹患して死亡
北白川宮能久親王
日本の皇族。陸軍軍人。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。
明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征(乙未戦争)。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。
皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされた。
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幕末から明治にかけて非常にドラマチックな生涯を送った皇族です。
わかりやすく言えば、香淳皇太后の父方の祖父の弟で大叔父に当たります。
北白川宮の実兄の久邇宮朝彦王(皇淳皇太后の祖父)は、中川の宮とも呼ばれ、幕末の京都の「政局」を大きく動かした黒幕で稀代の策謀家でした。
文久3年の8月18日に、有名な「八一八政変(クーデター)」を起こして、京都朝廷から、長州藩と親長州派の公卿たちを追放しました。
佐幕派であり「反長州派」の皇族でした。
このクーデターを機に、幕末は一気に血なまぐさくなります。
しかし、王政復古で薩長が最終的に政権を握ると、岩倉具視や長州の元老の恨みを買って広島に「流罪」にされました。
そして、明治天皇以下多くの皇族と公家が京都から東京に移転する中、久邇宮一家は明治5年まで、東京に移ることを許されませんでした。
久邇宮朝彦王については別の機会に譲ります。
北白川能久親王の命式を見て見ましょう。
四柱推命鑑定命式 北白川能久親王
1847年4月1日~1895年10月28日(48歳没)
上 | 中 | 下 | 宿命星 | 蔵干 | 12運 | 吉凶星 | ||
年柱 | 丁 | 未 | 己 | 劫財 | 傷官 | 衰 | 金輿禄、 華蓋 | |
月柱 | 癸 | 卯 | 乙 | 正官 | 印綬 | 沐浴 | 血刃、 咸池 | |
日柱 | 丙 | 寅 | 甲 | 偏印 | 食神 | 長生 | 月徳貴人、 亡神 | |
時柱 | 甲 | 午 | 丁 | 偏印 | 劫財 | 傷官 | 帝旺 | 羊刃、 隔角 |
【戌亥空亡】
宿曜経 亢宿(こうしゅく)
【総合鑑定】病気や災厄に遭いやすい命式。
マラリアや風土病が猖獗(しょうけつ)する台湾への出兵は最初から生命の危険が有った。
日柱の天干は「丙(太陽の火)」で4月生まれ、丙は真夏が「旬」の季節なので月令は得ていません。
その意味で命式の構造は強くは有りません。
《食傷過多の成立》
食神が1個、傷官が2個で「食傷過多」の成立です。
病気や災厄に遭いやすい暗示です。
《印星殺の成立》
印綬が1個、偏印が2個あります。
印星殺の成立です。
行運(大運、年運、月運、日運、時運)に印星が巡ってくると運勢が暗転する怖れが有ります。
月徳貴人が有ります。
金輿禄のある男性は「所作の美しい」皇族らしい方だったのでしょう。
海外で活躍する隔角が有ります。
ドイツに留学して、プロイセン貴族の未亡人と婚約までしましたが実りませんでした。
帰国後は台湾征討戦で病死するまでは陸軍の中将として活躍しました。
好色の星の咸池が有りますが、生涯に庶子を含めて10人の子をなしました。
内8人が無事に成人して、華族として「皇室の藩屏(「血」のファイアウォール)」となってくれたのです。
宗教の星の華蓋が有ります。
宮様は生前、自分が死後に、台湾神宮、台南神社を始め、台湾各地の「主祭神」として祭られることになるとは思ってもみなかったでしょう。
《血刃と羊刃が感染症への抵抗力を弱くした》
薨去されたのは48歳なので大運を見ると
48歳~58歳 戊戌―食神―墓―大運空亡・・・・飛刃
亡くなったのが満48歳と6か月、台湾征討戦は宮様が誕生日を迎えた4月の翌月の5月から始まりましたから、大運空亡突入後のまさに「死出の出陣」となりました。
大運の戊戌の「戌」が、命式の日柱の「寅」と時柱の「午」とで、寅―午―戌の三合火局を形成します。
飛刃が巡ってくるので「飛刃の冲「ちゅう」」と言って、思わぬ災厄に見舞われる時期でした。
台湾征討戦(乙未(いっぴ;きのとひつじの年)戦争)
下関条約によって日本への台湾割譲が決まり、上陸した日本軍に対して清国の残兵や一部の台湾住民[1]が抵抗し戦闘となったものである。
清国の敗北後、清国の残兵が台湾の住民たちを組織化して、「独立宣言」して抵抗しました。
日本軍による現地婦女子に対するレイプなども有り、反感が募り「事実上の自治」を求めて、武装した台湾住民らは勇敢に戦い、激しく抵抗して、苦戦を強いられました。
甘く見ていた大本営は、軍隊を増強しながら、ゲリラと化した住民軍と戦い、結局平定するのに5か月もかかってしまい、中国大陸の英字紙では失笑されました。
苦戦の原因は
- 台湾住民が勇猛だったこと
- マラリア、赤痢などの風土病と脚気などに苦しめられたこと。
です。
日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者(大谷による推計)[18]を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされる[20]。
《日韓併合直前の「朝鮮の義兵闘争」との違い》
現代の韓国では、「反日教育」の一貫で、併合前の「義兵闘争」をウリナラファンタジーで潤色(じゅんしょく)して教育していますが、日本に帰化した拓殖大学の呉善花教授によると実態は、組織だった抵抗のできない「烏合の衆」だったようです。
ある「義兵集団」は、千人ほどの人数を集めて、数日後に、朝鮮半島某所の日本軍の基地を攻撃する作戦を立てていました。
しかし、当日になったら大将が行方不明になって、攻撃の決行ができない。
みんなで手分けして、行方を探したら、何と大将は実家に帰っていた。
理由は、大将の父親が急死したので「作戦そっちのけ」で「喪」に服していたのです。
「儒教原理主義」で生活の隅々まで拘束されていた李氏朝鮮では、国防より「親孝行」が優先されたのです。
★日韓併合後は、朝鮮総督府に対してひたすら従順な「順民」となった朝鮮人と比較し、日本統治に納得できない、「日本式近代化」が気に食わない台湾の住民や、勇敢な山地の原住民は20年近く抵抗を続けました。
「日本式統治と近代化」が清朝統治に比べて遥に、生活が豊かで暮らしやすくなることを理解してもらうのに1895年から1915年まで20年かかったのでした。
北白川宮様の陣没した1895年10月25日の行運(大運、年運、月運、日運、時運)を見て見ましょう。
上 | 中 | 下 | 宿命星 | 吉凶星 | ||
1895年 | 乙 | 未 | 己 | 印綬 | 傷官 | 印星殺、 羊刃×3個、 飛刃 |
10月 | 丙 | 戌 | 戊 | 比肩 | 食神 | 空亡、 飛刃 |
28日 | 戊 | 申 | 庚 | 食神 | 偏財 | 「血刃&駅馬」×3組 |
1895年は「印星殺」でしかもけじめをつけられる厳しい傷官の年でした。
不吉の星の羊刃が3個も巡ってくるし、命式の羊刃と同柱の地支の「午」と未が支合するので「羊刃の冲「ちゅう」」と言って災厄に遭う暗示です。
飛刃も巡りくるので「飛刃の冲「ちゅう」」で思わぬ災厄に遭う暗示でした。
10月は「戌」の月で、空亡月ですが、大運同様に、命式の「寅」「午」と寅―午―戌の三合火局の成立で、大運と合わせると「三合火局の二重成立」となってしまいました。
10月も飛刃が巡り来て「飛刃の冲「ちゅう」」の成立です。
28日は、戊申の「申」と命式の「寅」が「凶レベル1」の申―寅の冲「ちゅう」を形成し、大怪我や大事故に遭いやすい「血刃&駅馬」が3組も成立していました。