雅子妃|皇太子妃身元調査(4)
皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!
噂の真相 1993年4月号
現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、
被害者である水俣の人々はどう感じているのだろうか。
マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、肝心の患者たちの生の声をほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信しましたが、それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。
実際、取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』との脅迫電話がはいったらしい」
今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシステムによって、さらに増幅されていく。しかし、ひとりの患者がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。
「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫がお妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
「ただ-」呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわれて、我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで水俣病の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」
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毎日グラフ 1993年1月31日号
新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく
恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。
当時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日記にこう書き残している。
「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さんをご案内した。
おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかなかの人だと思った」
小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。
竹沢さん自身、雅子さんの父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。
「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。
下級武士であったために小和田家のルーツは記録が少ないが、
これで系譜を解きあかす興味が増えた」といきいきとした表情で語った。
週刊朝日1993年1月29日号
美智子皇后と雅子さんのルーツ
三代前にニアミス
佐賀 早逝した明治のエリート将軍
雅子さんが皇太子妃になって、天皇家には“佐賀の血”がさらに濃くなる。
美智子皇后の母の故正田富美子さんも、雅子さんの母の優美子さんもルーツは佐賀だからだ。
正田富美子さんの実家は、佐賀県多久市の副島家。
優美子さんの祖父は、肥前国佐賀郡北川副村木原(現在は佐賀市内)出身の江頭安太郎海軍中将である。
安太郎は、慶応年間の生まれ。
中学、海軍兵学校、海軍大学と常に首席で、日露戦争の際は大本営参謀。海軍中枢の軍務局長に昇進し、海軍大臣を嘱望されたが、肺病のため、一九一三(大正二)年、四十七歳で亡くなった。
安太郎一家は東京に出て、佐賀には、安太郎の長女の嫁ぎ先の親類がいるくらいだ。
その一人、古賀治男さん(八一)は、こういう。
「新聞に出た系図に叔父の名前があって、驚いたとです」
佐賀市内の遠縁の女性も、「親戚づきあいもないのに、ある新聞に遠縁と書かれて迷惑でした」と、話すのである。
続きます。