2016年1月1日
皆様に新春のお慶び申し上げます。
思えば、昨年11月から、年末まで、一心不乱に「皇室問題」に取り組んで記事を書きました。何かに憑りつかれたように。
「今言わなければ意味がない」と言う覚悟で、疲労を押して、記事を怒涛の様に更新し続けました。さすがに疲労が極致になり、記事を書きながら睡魔に襲われて、PCの前で朝を迎えたことが一度ならずありました。
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11月に、鹿児島の父の従兄弟の御宅に、挨拶がてら、遊びに行きました。父の従兄弟の奥さんは、旧華族の秋月子爵のお嬢様で、高齢になった今でも、全身からオーラを発していらっしゃいます。
年は、聞けませんが、結婚したのが1970年ですから、正田泰子と同じくらいでしょうか。
奥さんはあの年で、PCやネットで楽しんでいます。今回、開口一番、言われたのは、「読んでるわよ、あなたのブログ、美智子に対して、よくぞあそこまで行ってくれました」とほめられました。
聞くと、正田美智子入内以来、旧華族の人達は、「諦め」にも似た気分で、戦々恐々として口をつぐんでいたそうです。
御妃候補が美智子に、絞られ始めたときから、正田は部落の家系、実の父は正田英三郎ではなく、妻、富美と部落出身の堤康次郎との不倫の子だという事を知っていたそうです。
富美の「大陸夫人」と言う俗称も、一応、娘が、皇太子妃だから遠まわしに皮肉で付けた呼び名で、家の中では「朝鮮女」と侮蔑していたそうです。
何よりも、家族の人達が恐れたのは、「部落ヤクザ」の西武の堤康次郎の娘だからです。「ピストル堤」と呼ばれた歴史に残る極悪人の娘ですから、下手に美智子と関わると、実父の手のものに殺されるかもしれない。と言う恐怖は、当時の華族の方々には当然の恐怖であったと思います。当時朝鮮人が未だ、暴れていた時代で、敗戦後の警察力も弱く、日本人は朝鮮人達の暴行と脅しに屈していた時代です。
富美と言う「朝鮮女ヤクザ」と堤と言う「部落ヤクザ」の間に生まれた娘は、人生20回整形しても、「上流階級の令嬢」に成れるはずが有りません。DNAは嘘をつきません。どんなに、墓石のようなドレスを着ても、顔はどんどん「朝鮮顔」になっています。それは、雅子もまったく一緒です(笑)
年を取るにつれて、本物の華族、津軽家の華子妃殿下に圧倒的な差をつけられています。美智子は着物を着て、華子様と並ぶのが嫌なのでしょう。
余談ですが、奥さんは、子供の頃から、歯医者や、病院、美容院に行くとき、母親から、「待合室で、絶対女性週刊誌は読んではだめよ。あんなものは、朝鮮人か部落民の読み物なんだから(怒)」と厳しく諌められていたそうです。
「今年は、皇族から、魔物がいなくなるといいわね(笑)」が奥さんの締めの言葉でした(笑)