【皇室問題の本質を斬る】皇女和宮の命式に見る皇室の伝統「複数体制」の維持
いよいよ「次代?」の即位が迫ってきました。
「最悪のカップル」の即位はご免こうむりたいと思いつつも、「悲観的予測の名人」の私(笑)としては、「あるやんごとなき男性2名」が同時に御不例となるという、野球でいえば、9回の裏、3対0でリードされ、ツーアウト満塁で、代打の切り札登場。
「御不例」とは
〘名〙 (「ご」は接頭語) ある人を敬って、その人の体の状態が通常でないことをいう。御病気、特に貴人の病気をいう。
※玉葉‐仁安二年(1167)閏七月一四日「就レ寝之後、或人云、俄上皇御不例、殊以重御云々」
逆転満塁ホームランで、4対3で「奇跡のサヨナラ勝ち」という劇的シーンは、心の中で秘かに思いつつも、現実感を持ちません。
子供の頃から「真剣勝負」に慣れ親しみ、常に「最悪の事態」を前提にして、戦いの始まる前に、「打てる手」は全て打っておく。
そして、決戦の場では、自分が死んでも相手も必ず「再起不能」にする「差し違える」覚悟で、喧嘩や、社内の権力闘争を闘ってきた私は、たとえ負けることが有っても再起不能になるような「大負け」はしたことがありません。
5月1日に、佐伯徳仁氏と小和田雅子が即位しても、「純粋日本人」の私やでれでれ草さん、定住読者様、皇室全般画像掲示板の「正義派」の紳士、淑女、鬼女の方たちに、たとえ最悪のケースが起きても、耐えて待ち、「捲土重来(けんどちょうらい)」を期してもらうために、今回の記事は書きました。
「捲土重来」とは
〔「けんどじゅうらい」とも。杜牧「題烏江亭」中の「捲レ土重来未レ可レ知」より〕
一度敗れたものが、再び勢力をもりかえして攻めてくること。一度失敗したものが非常な意気込みでやり直すこと。 「 -を期す」
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《私に皇紀2700年の「皇統の本質」に気づかせた歴史的に超有名な皇族の命式》
それは、日本史の教科書にも載り、小説の題材にもなり、多くの映画やドラマの主人公にもなった、幕末の皇女和宮の命式です。
和宮親子内親王とは・・・Wikiより
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) – 明治10年(1877年)9月2日)
仁孝天皇の第八皇女。
孝明天皇の異母妹。
明治天皇は甥にあたる。
江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。
品位は二品、薨後贈一品。
「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
年譜
※日付は明治4年までは旧暦
弘化3年(1846年)
閏5月10日未刻、仁孝天皇の第8皇女として誕生。
閏5月16日、「命名の儀」において孝明天皇から「和宮」の名を賜る。
嘉永元年(1847年)
8月1日、丙午生まれの和宮に「歳替えの儀」で歳が改められる。
嘉永4年(1851年)
7月12日、有栖川宮幟仁親王の長男・熾仁親王と婚約。
文久元年(1861年)
4月19日、内親王宣下を受け「親子」という名を賜る。
10月20日、徳川家茂との婚儀の為に京都の桂宮邸を出発。降嫁に際し、三品に叙せられる。
文久2年(1862年)
2月11日、江戸に着き皇室から降嫁、家茂と婚儀を江戸城で挙行。
慶応2年(1866年)
7月20日、家茂が大坂城にて死去。輪王寺宮慈性入道親王を戒師として落飾し、同年12月9日、「静寛院宮」を称す。
慶応4年(1868年)
1月15日、大坂より帰府した慶喜と対面。
1月21日、土御門藤子を使者として上洛させて徳川家のための嘆願書を提出。
3月10日、再び藤子を沼津に遣わし官軍の江戸進撃猶予を嘆願、11日には侍女玉島を蕨駅に遣わし官軍の進撃猶予を再度嘆願。
4月、江戸幕府は官軍に江戸城と大奥を明渡すことになり実成院とともに田安屋敷へと移る。
明治2年(1869年)
1月11日、天璋院を訪問して暇乞いをし、18日に東京を発ち、2月3日京都に戻り聖護院を仮御殿とする。
明治6年(1873年)
3月20日、二品に昇叙。
明治7年(1874年)
7月8日、居を東京麻布へ移す。
11月12日、徳川家達を招待、29日には天璋院、本寿院らを御殿に招待する。
明治8年(1875年)
9月19日に観行院の10回忌を営み、10月9日には徳川邸を訪問する。
明治10年(1877年)
9月2日、療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて死去、享年32。
当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺
明治16年(1883年)
8月27日、贈一品。
生年月日は、記事、執筆時点でのWikiの記載に基づいています。
早速命式を見てみましょう。
次号へ続きます