「善政」を敷きすぎたために、現在も韓国人から恨まれ続ける「朝鮮総督府」
韓国の路地を旅する
上原善広
上原は、フィールドワークとして、韓国の歴史上の被差別民「白丁(ペクチョン)」を探しに韓国に渡りました。
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白丁(ペクチョン)とは・・・・Wikiより
http://archive.is/EgBDG
とは、中国・日本の律令制の身分。朝鮮半島では李朝時代から良民である両班・中人・常民と賤民となる奴婢の更に下という最下層の人々を指すようになった[1]。
朝鮮半島における白丁
李氏朝鮮における白丁と賤民
高麗時代までの朝鮮では、白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。
李氏朝鮮の時代に身分制度がさらに複雑化し、国王、両班、中人、常人、賤民(=賤人)に大別され、白丁は賤民の中の最下位に位置づけられた[3]。白丁は「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢、妓生、官女、吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)、八般私賤(巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民(非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。
「芸をする人」とは、「芸人」「お笑い芸人」です。
日本でいえば、在日芸人のエースのビートたけしでしょう。
1980年代に、ビートたけしが台頭してから、それ以前の古き良き「漫才」は消え、「漫才師」の「師」と呼ばれる人たちは淘汰されていきました。
韓国では「病身舞(びょうしんまい)」と言って、体に障害を持つ人の動作を馬鹿にして笑う「下等」な風習があります。
有名な例は、政敵であった朴正煕元大統領の指示で、交通事故に見せかけた暗殺未遂を受けた金大中大統領は、後遺症で生涯、足を引きずりながら歩いていました。
その「足を引きずる動作」を真似して、「笑い」をとった韓国の芸人がいたのです。
日本で、在日の多くの人たちは、「シャベツダ、シャベツダ」と言って騒ぎますが、彼らの90%以上の国籍=母国の韓国の方が「差別」は非常に「多様」でバラエティに富んでいます。
「全羅道差別」に代表される「地域差別」、「在外同胞」特に、「中国朝鮮族」に対する差別。差別に怒った朝鮮族は報復で、首都ソウルで殺人事件を頻発させています。
だから、故井沢満は「韓国」のことを嫌っていたのです。
後は、「障碍者差別」や他人の「容姿に対する差別」
たけしが売れ出したころ、TVで「日本ブス選手権」などというとんでもない企画をやっていました。
日本人の発想ではないですね。
「頭」を使わずに「動作」で笑いを取るタケシの芸は「病身舞」そのものです。
病身舞とは・・・Wikiより
韓国慶尚南道密陽地方に伝わる伝統舞踊で、ハンセン病患者、小人、身体障害者、背むしなどを真似たものである。
密陽地方では、旧暦の7月中旬を作男の日(モスムナル)と定め、作男達をもてなして、様々な踊りと土俗的な遊びをする。 その踊りの中には、身体障害者や病人をまねた滑稽な踊り、「病身舞」がある。 階級差が激しい「下級の農民達」の悲しみを晴らすために、支配階級の両班を病身に見立て、こき下ろして遊んだのがきっかけである。タルチュム(仮面戯)で踊る場合もある。
日本統治時代には障害者差別をやめさせるために法[要出典]によって禁止されていたが、戦後に復活した。歌詞もあったというが、現在では伝わっていない。
★日本統治時代は「障碍者差別」として禁止していたんですよ(怒)
白丁に戻ります。
日本統治下における身分解放
※画像はhttp://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-317.htmlから
1909年に日本政府によって韓国統監府が設置されると、戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない白丁を始めとする賤民とされていた階層にも姓を許可し、身分差別を撤廃したとされる[7]。
また、身分解放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対し両班はこの施策を認めず抵抗活動を繰り広げたが、日本政府は旧両班の反対を断固として鎮圧した[7]。通名も参照のこと。
1926年の朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島の「白丁」とされていた階層は8211世帯、3万6809人にのぼる。職業の内訳で最も多いのは獣肉販売業で27.8パーセント。これに屠畜、製革、製靴など牛に関係する一連の職業をあわせると48.8パーセント。農業が25.2パーセント。柳器製造が10.6パーセント。飲食店や低級旅館の経営が5.8パーセントであった。
現代韓国における状況
独立とその後の朝鮮戦争勃発による社会的混乱、パクチョンヒ大統領就任移項の工業化の過程での都市部への人口の移動によって、韓国から姿を消すこととなった。
しかし、現在も罵倒語として「白丁」(ペクチョン)「白丁野郎(ペッチョンノム)」という言葉が使われる。また、済州島等の白丁が多かった地域に対しての差別意識も根強く、この差別意識は地域対立の要因の一つとなっている。
戦後に済州出身者が日本に密航してきたのは白丁身分と李承晩による済州島鎮圧が原因と言われている。そのため、在日朝鮮・韓国人には済州出身者が圧倒的多数を占めている[8]。
ポイントは
★「日本統治下」で、「身分解放」=「奴隷解放」をやったことです。
イギリス人の当時は世界有数の「植民地学者」でシカゴ大学教授だった、アレン・アイルランドは、代表作 The New Koreaで
「朝鮮総督府による「朝鮮人奴婢解放」は世界で最も成功し、かつ徹底した「奴隷解放」だった」と述べています。
アレン・アイルランドとは・・・Wikiより
1871年 – 1951年)は、イギリスの学者。植民政策学、植民地統治研究の専門家、シカゴ大学委員、王立地理学会特別会員。コーネル大学、シカゴ大学、ローウェル・インスティテュートで教鞭を執った。
生涯
1871年、イギリスに生れる。主に植民地統治に関する専門家として、アメリカの雑誌などに広く執筆活動を行う。
1901年、米シカゴ大学の招きにより、植民地運営研究の委員に任命される。約3年間にわたり極東に派遣され、イギリス、フランス、オランダ、そして日本による朝鮮統治のシステムを研究する。またフィリピンに6カ月間滞在している。コーネル大学、ローウェル・インスティテュートなどで教鞭をとり、その研究成果を著書として発表する。
その研究方法は、自身の豊富な経験やデータ分析、地政学を用いて中立的な立場で現実を把握することに努めており、当時のメディアから高い評価を受けている。
日本の朝鮮統治研究
『The New Korea』(1926年)は日韓併合前後の記録として、朝鮮学や日本統治を記録した貴重な文献の一つとされる。同じく当時を知る文献としてイザベラ・バードやシャルル・ダレの著作が挙げられるが、アイルランドの場合はシカゴ大学から派遣された専門家として、他の欧米による植民地政策との比較や地政学を用いて、第三者的な立場で日本の朝鮮統治を評価している。商業的な目的や探検家、宣教師とは全く違う立場であり、同時代の世界情勢の中で日韓併合を分析しているという点で、稀有な記録である[4]。
朝鮮総督府第3代・第5代斎藤実総督、および政務総監である有吉忠一の手腕を高く評価している。
上原善広の著作によると
★朝鮮総督府は、朝鮮人奴婢階級を「身分解放」しただけではなく、「奴隷」から「一般国民=当時は大日本帝国臣民」となった人々が、日韓併合以前に「奴隷階級」であったことを記録する資料を、徹底的に焼却してしまったそうです。
彼らの「悲しい過去の記録」を朝鮮半島から永遠に「抹消」したわけです。
ですから、現在の韓国では、息子や娘が結婚するときに、両方の親が、相手の出自を調べることができないのです。
僅かに、現在、従事している職業で疑うだけです。
例えば、精肉業者とか。
しかし、これらの業種も、「焼肉文化」の韓国では儲かるので、朴正煕大統領の高度成長期に、多くの「一般国民」が参入して、区別がつかなくなっています。
★現在の韓国人の本音
「ったく、日帝は余計なことしやがって・・・・・」
恨まれるはずですね(笑)
リンカーンの「奴隷解放」と比べてみよう
リンカーンは「奴隷解放」を錦の御旗に掲げて、南北戦争を戦いました。
しかし、大統領としての政治家リンカーンとその支持勢力の本音は、リンカーンの支持基盤であった、アメリカ北部の「工業資本」の市場として、南部連合を屈服させ、工業製品の市場にすることでした。
ですから、南北戦争終結後、南部では奴隷制は禁止しましたが、自分の支持基盤である北部では奴隷制の維持を認めました。
「偽善」だったのです。
だから、リンカーンの人間性の本質を見抜いた、ジョン・ウィルクス・ブースは「リンカーンは、皇帝になるつもりだ」と怒り、元プロレスラーで喧嘩も強かったリンカーンの暗殺に走ったのです。
リンカーンを銃撃した時のブースの言葉は「独裁者は常にこうなるのだ」でした。
★それにしても、朴槿恵が「千年恨む」と言った朝鮮総督府の歴代の総督と日本人官吏たちは、「善政」を敷きすぎました。
彼らは、日本本土では絶対に不可能な「理想的な民政」をやったのです。
日本で「壬申(じんしん)戸籍」が封印されたのは「ミチコ」の入内後
壬申戸籍とは・・・Wikiより
は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申(みずのえさる)」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。
概要
江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民まで戸を単位に集計した。また、江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。
壬申戸籍では、皇族、華族、士族、卒族、地士(讃岐の郷士のみ)、旧神官、僧、尼、平民等を別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には新平民や、元穢多、元非人等と記載されたり等、差別は色濃く残った(一部は明治19年式戸籍や身分登記簿にも登載された)。
1968年(昭和43年)被差別部落民かどうかを探り出すためにこの戸籍が用いられようとした事件が発覚し、同年3月29日民事局長通達により閲覧禁止とし、法的な廃棄手続きを経たものは法務局・地方法務局・市町村のいずれかにて厳重に包装封印して保管することになった[2]。保管の理由として「遠い将来における学術資料・歴史的資料となり得るもの」としている[
朝鮮総督府に勤務した日本人官吏たちは、本土でも「壬申戸籍」の償却をやりたかったでしょう。
「行政官の理想」として。しかし、本土では様々な「しがらみ」があってできなかったのだと思います。
★「凶悪な日帝」の理不尽な政策により「白丁差別」の楽しみを奪われた、独立後の韓国人たちは、それに代わる「様々な「差別」を考え出します。
日本にいる在日の一部の人たちも同じだと思います。
同じ民族ですから。
「差別だ!差別だ!」と喚く人たちほど、立場が変われば「差別志向」に走るでしょう。