皇后様50年間国民を騙しつづけた迷女優
2015年10月20日
3柱(年柱、月柱、日柱)だけでは、本性を解析できない人のために、今回から、時柱を当てる推時黄金律を駆使して、「はらわた」の中まで明らかにしたいと思います。
ネットでわざわざ、皇族方の誕生時刻を収集してくれた有り難いポトスさんの様には、敢えて、推時黄金律を使用するつもりです。私の思い入れが有りますから、悪しからずご了承ください。
さて、皇后様ですが、前回記事の時(今年1月)の時は、私は未だ、皇后様に関しては「お花畑」で、すっかり騙されていました。
しかし、その後の「A級戦犯発言」や、「BBの覚醒記録」さんの記事やポイントをついた写真を見るために、皇后さまという大根女優に幼少の頃から、すっかり騙されていたことを知り、怒髪天を衝くほどの怒りを覚えました。
私は、社会人になるまで直系家族で、祖父母、両親、兄弟の三世代で、一戸の家に住んでいました。特に祖父は先帝様の一歳年上、香洵皇后は、祖母の一歳上でした。私は東宮の2歳年上で、弟は秋篠宮と同い年です。
そういう、偶然の年の近さもあり、当時TVで「皇室アルバム」を見るたびに、「理想の家族」を連想して、憧れていました。
特に、マスメディアが囃し立てた「美智子妃いじめ伝説」には、深く同情しました。しかし、「いじめ伝説」は都市伝説にすぎなかったでしょう。後で詳しく述べますが、この方は苛められて「よよ」と泣くような柔な女性ではありません。むしろ執念深
く、しっぺ返しして、相手を畏怖させるような怖い人です。それでは、命式を見ていきましょう。
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四柱推命鑑定命式|皇后様
【総合所見】
① 現在は宿願の皇室の「女帝」、国民も徐々にその本性を知って心が離れていく。
②2017年が大きなターニングポイントになる。
① については
子と未が害「がい」を形成します。両親不仲の暗示です。この害「がい」が有るために天乙貴人が死んでしまいました。華蓋(かがい)は宗教と芸術の星です。聖心女子大で洗礼まで受けたこの方にピッタリです。
しかし、自業自得とは言え、一人娘の黒田清子さまにも、見放されたのはさびしくて哀れです。サーヤは「自分に対する母親の依存の強さに嫌気がさしていたそうです。本音は「もう私に依存するのは止めて」と言ったところでしょう。女親が、一人娘に甘えるのは世の常です。
しかし、聡明な清子さまから見限られるとは、余程我慢できないことが有ったのでしょう。清子さまは両親を見限って、夫婦そろって、秋篠宮邸に定期的に訪問しているようです。眞子、佳子両内親王からは子供のころから「ねえね」と呼ばれて、家族同然のお付き合いでした。
清子さまは、ご自分の「皇室の有り方」というか、「皇室論」をお持ちで、かなり、率直に、雅子碑にも直言したらしいですか、そこは、雅子のこと、「逆恨み」をしちゃったそうです。
・正官と印綬が、パワーラインを形成します。組織の中で相当の所まで出世する暗示です。
・1個の正官と正財と偏財が二重にパワーラインを形成します。
・【正官と財星のパワーライン】です。組織を抑え込む力が有ります。今、既に、皇族には抵抗するものもなく、【事実上の女帝】です。女性天皇です。皇后さまは今上陛下という配偶者がいるのに、【皇室を事実上牛耳っています】
・寡宿(かしゅく)が有ります。【何かと露骨なふるまいをする人】です。
悠仁親王に、靴の片方しかプレゼントしない。「後は大きくなってからね」
・・・まるで悠仁親王に成人してほしくないのかと言わんばかりです。
「暗殺でもする気ですかね」
この皇后さんは、一番怖かった昭和天皇は辛抱強く死ぬのを待って、先帝様死後、車椅子の人となり弱った香洵皇大后には、最も信頼していた女官を、皇后さまが強引に解雇し、寂しくなった皇太后が、その女官と電話で話しているとき、侍従に命じて、電話を無理やり取り上げるなどの暴挙をして、皇太后を失意のどん底に落とし込み、死に追い込みました。
そして、次のターゲットが、髭の殿下と親しまれた三笠宮宣仁殿下です。
殿下は、昭和大帝を心から尊敬していましたから、平成の世になって、美智子皇后主導で皇室が「本来あるべき姿」から、著しく変質していくのに強く悩まれていました。
率直なと人殿下のことだから、一度ぐらいは今上陛下に直言したであろうことは想像に難くありません。しかし、皇后様の尻にひかれている今上陛下では暖簾に腕押しだったでしょう。
寛仁殿下は、ストレスが溜まって、アルコール依存症になり、それを止めた妻の信子妃(麻生元総理の妹)とも険悪な関係となり。DVまで振るうようになりました。ガン末期の寛仁殿下は、意地になり、喪主を、信子妃を外して、長女の彬子女王を任命しました。娘たち二人、彬子女王と、瑤子女王は父親側につき、挙句の果てに、母親の信子妃を皇室から追放するクーデターまで起こしかけました。
こうした、三笠宮家の内紛を、皇后さまは、一か月前の週刊文春で「非常に憂い手おります」などと白々しくおっしゃっていましたが、三笠宮寛仁殿下の年齢にしてはお早い薨去と死後の内紛の原因は全て皇后様に有ります。
ご自分でも自覚が有って、ああいう白々しいコメントをしたのでしょう。
昭和大帝も香洵皇后も逝き、唯一の目の上のたんこぶの三笠宮寛仁殿下も薨去されて、皇族内に、自分に反抗する勢力はいなくなりました。寛仁殿下が無くなった2012年から「女帝」の地位と権力を固めたのです。
後段へ続きます。